恋の超音波 1

「今日で最後なんです」
 そうイルカに言われてカカシは首を傾げた。その時彼は、イルカの尻を持ち上げてその下に正座の形に曲げた自分の腿を置き、さて入れるかと狙いを定めていたところだったので若干ぼんやりと返事をした。
「最後、ですか?」
「はい」
 とりあえずぎゅっと根元まで押し込んでからカカシはもう一度首を傾げた。
「イルカさん、妊娠した?」
「しねえよ、バカ」
 べちっと足の裏が顔に張り付き、カカシはうーんと唸って足首を掴む。
「じゃ、なんで最後なの」
 がぶりと足の親指に噛み付きながら腰を浮かすと、イルカは小さく身を捩った。
「気持ちいい?」
「少し」
「少し、ね」
 ちゅーちゅーと音をさせて指を吸うと、イルカは嫌そうな顔でカカシを仰いだ。
「その口でキスしないで下さいよ」
「……はい」
 それからしばらく無言でベッドを軋ませ、いい汗かいたなどと言いながら体を分ける。イルカはけだるそうにもつれた髪を掻き上げ、横臥の姿勢で改めて言った。
「あなたとは、今日で最後にしたいんです」
 早速腹筋運動を始めていたカカシはイルカにティッシュの箱を渡しながら目を泳がせ、矢庭に叫んだ。
「浮気ですか!」
「違います」
「大体ね、あなたオカシイんですよ、高嶺の花とも言われる俺に足の指まで舐めさせてね、その上浮気ですか!」
「高嶺の花……」
「あんたね、ちょっと可愛いからって尻の穴まで舐めさせてね、どうなってんですか!」
「そっちはそれなりですね」
「でしょ、ヨかったですよね!」
「ええまあ」
 ほらね、と満足そうにカカシは腹筋運動に捻りを加えた。
「ええと……見失う前に話を戻してもいいですか」
「なんでしたっけ?」
「人の話聞かない癖、どうにかした方がいいですよ」
「愛しいあなたの声は全て聞いてます!」
「ハイハイ、だからこれで最後なんですって。長らくお世話になりました」
「いいえーこちらこそー」
 ベッドから下りて頭の後ろで手を組もうとする上忍に、スクワットするならパンツ履いて下さいとイルカが言い、そうですね、と白い手が床に脱ぎ捨てられている真紅のビキニを掴んだ。
「いつも気になっていたんですけど、なんでそんな小さいの履くんですか?」
「ぼーぼーのイルカ先生と違って薄いんです、はみ出さないんです」
「……ハゲてしまえ」
「それもいいですね!」
 ハゲいいなー強そうだもんねー、威嚇? とカカシは運動後の軽い運動に勤しむ。その姿に溜息を落とし、
「ともかく、俺はもうカカシさんとは会いませんから」
 と言い切ると、イルカはばりばり頭を掻きながらカカシの背後を通過して風呂場に向かった。その歩行軌跡に点々と零れている自分の体液をにやにやと眺めて二百回程スクワットを行ったカカシは、再びの首傾げと共に水音に向かって叫んだ。
「俺が会いに行くから大丈夫ですよー?」


 その夜、二人の別れ話は苛烈を極めた。気を抜くとすぐに、良いスイカの見分け方やレーズンとカレーの関係性について真剣に論じながらのセックスになだれ込んでしまうからだ。やがて朝日が昇り、互いにあくびをかみ殺しながらじゃあ出勤準備でもと言ったところで、イルカがはっと気付いて大きな声を出した。
「四回もヤっちまったじゃないかー!」
「朝日はいつでも黄色いものです」
「バカバカ、俺のバカ! カカシさんとは別れるのに!」
 イルカはかんかんに怒りながら髪を括って出て行った。
「ほんとにね、イルカさんは難しいよ」
 イルカを見送ると、カカシはいつも通りに慰霊碑に向かった。ま、そこが可愛いんだけどね、と笑顔で独り言を紡ぐ猫背の男を通り掛かる者は大きく迂回する。
「でも最後ってねえ、ホント突然なんだから、」
 ぴた、と足が止まる。側の子供が、片足を上げたまま固まっている上忍を恐々見上げた。
「あれ?」
 顎に手を置きカカシはイルカの言葉を反芻した。そう、カカシが覚えていなくとも写輪眼は知っている。走馬灯のように昨夜の、『カレーにレーズンは七粒まで』『ハムメロンは禁固三年』などの結論が通り過ぎ、そして最後に浮かび上がったものにカカシは零れんばかりに目を見開いた。

 バカバカ、俺のバカ! カカシさんとは別れるのに!

「え?」
 確かにイルカはそう言った。真剣な顔で、もう会わないとも。脳裏に蘇った寂しげなイルカの微笑みに向かってカカシは呆然と口を開けた。
「嘘だ……」
 その呟きと同時に、両手を突き出しぶるぶると震え出した上忍から、どす黒いチャクラが流出し始めた。周囲は硬直した子供を抱えて逃げ出す大人の怒声や毛を逆立てる猫の唸り声で阿鼻叫喚の図、やがて人っ子一人いなくなった路地裏に恐ろしい悲鳴が轟いた。



「ということで、はたけ上忍の発した超音波は『イルカ先生のテッペンハゲ』という音声であったと判明しております。なお、その被害は民家十八軒の窓ガラスの破壊、生後一年以内の赤子のひきつけが六件、驚いて腰が伸びた老人が一名、あ、これは被害じゃないですかね、一帯のカラスが全滅したのも、」
「もういいわい……」
 コテツの言葉を遮り、溜息を吐く三代目の前には見るからに肩を落とした銀髪の上忍が水を滴らせて項垂れている。超音波を発した後、川に入って狂ったように願掛けをしていたカカシは、三個小隊の暗部によって捕獲され火影の部屋まで連行されたのだった。
「全くおまえという奴は」
 呆れを通り越して慈愛の眼差しで長老はカカシを見上げた。下げっぱなしの面布にも気付かずに洟を垂らして泣いているカカシはぶつぶつと何やら唸っている。
「泣くでないカカシよ。イルカにはなんぞ事情があるんじゃろうて」
 慰めの言葉は聞こえていないようだった。垂れ落ちる川水と鼻水を避けながら見上げれば、彼はイルカ先生、イルカ先生と、親を呼ぶ小雀のごとく呟いている。
「全くうっとおしくて堪らんわい、保護者はまだか」
「それがイルカはアカデミーに出勤していないようで」
 困ったように言うコテツの喉元にいきなりくないが突きつけられる。
「イルカ先生をどこに隠したー!」
「わあ、はたけさん、鼻水飛び散ってる飛び散ってる!」
「ああこれこれ、危ないからよしなさい」
 煙管にくないを叩き落とされたカカシは、袖で洟を拭いつつ訴える。
「俺、イルカ先生に捨てられたら生きてけないです!」
「情けないのう。四代目が聞いたら泣くぞ」
「いーえ、アノヒトなら絶対笑います」
「まあ、あやつはそういう性格じゃったな」
「水芸がお得意でしたねえ」
 三人がしみじみと昔を思い起こしているとばたばたと床を鳴らしてイズモが駆け込んできた。
「イルカが見つかりました!」
「どこだー!」
「く、くるし、つか、よだれ飛ばさんで下さ、」
 イズモの首を締め上げるカカシの後頭部に思い切り煙管を直撃させながら長老はまた深い息を吐いた。
「ともかくイルカをここに呼べ」


 床に伸びているカカシはそのままに、イルカは黒髪の尻尾をひょこりと揺らして頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」
「一体どうしたイルカ。おまえ達は良き鍋と蓋ではないか」
「鍋はいやです!」
「……どっちでもいいわい。ともかく里の平和のためにもこやつの機嫌を取ってくれ」
「いいえ」
 きっぱり言い、イルカはうつ伏せの銀髪をちらりと見た。
「別れると決めました、決めたんです」
「そうは言ってもな、相手は危険物じゃ」
 腕を組み、三代目は説教の体勢に入る。
「イルカよ、」
「だってこの人、尻の穴まで舐めるんですよ」
 三代目だけでなくイズモやコテツもがくりと頭を下げた。
「……減るもんじゃなし、それくらい舐めさせてやれ」
「冗談じゃありません」
 イルカも腕を組んで睨み下ろす。
「そもそも、犬も食わないなんとやら、と言うでしょう、口出しせんでいただけますか」
「それは自分で言う言葉じゃないがの……」
「もう決めたんです!」
 イルカは鼻傷をつんと反らして言い放った。こうなっては意地でも翻さない頑固者、それはこの里長が誰よりも知っている。多少面白く育ってしまったが、可愛がってきたイルカの決意に火影は諦めの溜息を聞かせた。
「だったらの、しっかり説得して綺麗に別れるべし、じゃ」
「御意」
 イルカは深々と腰を折り、ぐったりしたカカシを肩に担ぐと部屋を辞して行った。煙混じりの溜息でそれを見送ると、三代目はイズモを振り返った。
「イルカはどこにいた」
 カカシが床に残した様々な液体を拭きながら、はあ、とイズモは顔を上げた。
「病院です。捻挫したそうですよ」
「担当医は誰だ」
「キノネ先生ですが」
「……少し出かけてくる」
 困りますよー、と書類の束を抱えて口を尖らすコテツにひらひらと手を振り、三代目は歩き去る。



「やですやです別れなーい!」
 カカシを家に持ち帰ったイルカは、目覚めた途端に子供さながらに駄々をこね始める男の背中にどかりと座って説得を続けていた。
「でもねカカシさん、だめなんですよ、もう」
「やです! さっきからだめだめばっかり、訳を教えて下さい、悪いところは直します、俺がんばりますから!」
 カカシは首を捻ってイルカを見上げた。イルカは悲しげな顔でカカシの色違いの眼を見つめ返してくる。
「訳は言えません、お願いですから聞かないで下さい……俺も……辛いんです」
 真っ黒の瞳を濡らして眉を寄せるイルカにカカシは一瞬見とれ、そしてがくがくと首を振る。
「ももももちろんです! あなたが嫌がることなんてしません! ……あれ?」
「バカだろ、あんた」
 この繰り返しで数時間が過ぎていた。
「さすがに疲れてきました。別れましょう」
「ええー?」
「このまま別れるのが最善ですよ、それがいいんです」
「やですやです、絶対やだー! どうして別れなきゃならないんですか、こんなに好きなのに!」
「……そんな風に言われると……俺、泣けてきます」
「えっ! ごめんなさい、もう言いません! あなたのカカシは無理強いしない男です!」
「どっちだよ」
「……さあ」
「実は」
「言いたいんですね、イルカさん」
「いいから聞けよ」
「……はい」

 イルカは淡々と話した。自分が病に罹っていることを。
原因不明で治療方法も無い、その病の名は『五失病』。五感全てが徐々に奪われてゆくという、初めて聞くその病にカカシは驚愕し、目をうるませてイルカの手を握った。
「ど、どうしてあなたがそんな病気に」
 畳の上に正座をして項垂れる二人の影が、暮れ始めた陽に長く這っている。
「分かりません。火の国の風土病とも言われていますが、例が少ないので奇病と言った方がいいと思います」
「奇病……」
 そんな、とカカシは縋る視線を上げる。
「俺、俺、治療方法を探します!」
「無理なんです」
「俺はあなたのためなら海をも割る男です!」
「もう……発症していますから」
 ひ、とカカシは喉を詰まらせた。震える手でイルカの顔を撫で、目を耳を覗き込む。
「は、発症って、」
「触覚が鈍ってきました」
「どどどどうりで、夕べは感度が今ひとつでした!」
「……」
「病気の進行を止めましょう! 俺やっぱり今から治療法を探しに、」
 唾を飛ばして喚き腰を浮かせるカカシに抱きついて座らせ、イルカはぽんぽんとあやすようにその背を叩いた。
「カカシさん。俺達別れましょう。俺、あなたにみっともない姿を曝したくありません」
「諦めないで! きっと治ります、俺が治します!」
 イルカの肩を掴んで揺さぶり、カカシは必死に言う。
「必ず方法があるはずですから!」
 しかしイルカは穏やかに首を横に振る。
「この数年患者が連続したので、研究が進んだそうです。発症すると止めようが無いと、」
「そんなの、やってみないと分かりません!」
「だから、カカシさん、」
「俺があなたを助けます、きっと助けます!」
「間に合わないんですよ……キノネ先生に、一ヶ月程度で寝たきりになる覚悟をしておけと言われました」
「い、いっかげつ……」
 がくり、と両手を畳に付いてカカシは脱力し、二人はそのまま無言で長く座っていた。
 やがて開け放した窓が夜の気配を伝える頃、それに紛れるようにとうとうカカシは呟いた。
「どこまで……無くなるんですか、感覚」
 事態を受け入れたその言葉に、イルカは少し体を揺らした。明かりを点けない部屋は差し込む月の光で却って眩しく、彼の伏せられた睫は夜の陰を頬に落としている。
「個人差が大きいようです。すっかり失われることもあれば、全部がうっすら残って維持されることも」
 出たとこ勝負ですよとイルカは苦笑した。
「最悪、シモも緩むでしょうね。あなたにオムツを換えてもらうのは絶対嫌です」
「イルカ先生、」
「あなたならやってくれると思うから、嫌なんです」
「イルカ先生、」
「難病ですから完全看護で入院出来ます。手続きはもうしましたから心配ありませんよ」
 蒼白な面を見つめ、どちらが病人なんだかと微笑みながらイルカはほわほわした銀髪を撫でた。カカシはその手を握り頬ずりしてうめく。
「イルカ先生、俺、」
「別れましょう」
 決して引かぬ黒い目にカカシの息が止まる。
「俺の最後のお願いです。別れて下さい。これきり会わずに俺を見ないで下さい」
 そう言い、イルカは頭を下げて額を畳に付けた。部屋は急に静まり、しんしんと床を這うような虫の音が二人の膝辺りを浸していた。
カカシは、否やを言えなかった。



 イルカは翌日から入院した。五失病の進行の個体差は医学の常識範囲を越えており、健康だった者が眠って起きた時には五感の全てを失っていたという事例もあるらしく、イルカ本人の安全を確保するための措置だった。
 会ってくれるなとは言われたものの、押さえきれない思いを持て余すカカシは何度となく見舞いを申し入れた。しかし、一度も面会は許されない。愛しい者の容態すら知らされず、カカシは煩悶の日々を過ごしていた。

「ナルトー、待ってたーよ」
「うげっ、またかよ!」
 そうなれば、頼れる者は決まっている。イルカの口止めは万全だが、今日はカカシも本気だ。顔を見た途端に逃げだそうとした襟首をすかさず吊り上げる。
「離せよ! 俺は何も言えねーってば!」
 猫の子のようにぶら下げられ、本気で困った声を出すナルトを少しかわいそうに思う。が、もう待てない、時間が無い。口を割らない限りこのまま何時間でもぶら下げてやる、そんな気配を滲ませて凄む。
「いいから、教えろ」
 じたばたと足で空を掻きながらナルトは悲鳴を上げる。
「カカシ先生はダメだってば!」
「ひどーい、俺だけ仲間はずれ?」
 押して駄目なら、とおどけて見せたがナルトは逆に真剣な顔になってカカシの腕に拳をぶつけた。思わぬ強い力にうっかり襟を放すと、着地したナルトは足を踏ん張り頬を赤くして怒鳴った。
「カカシ先生ってば、大人だろ!」
「え、何、何怒ってるの」
 へらり、と機嫌取りの笑顔に一喝が飛ぶ。
「カカシ先生にだけは言うなって、イルカ先生言ってた! そんなの、そんなの大事だからに決まってるだろ、仲間はずれとか幼稚なこと言うなよ!」
「ああ、いや、あのね、ナルト、」
 ナルトは握った拳をぶるぶると震わせている。泣きそうな顔に、やはり病状は進行しているのだと認めてカカシは僅かに目を逸らした。
「……悪かったよ、ナルト」
 金色の頭をそっと撫でてやるとナルトは悔しそうにもがきながら、それでもカカシの腹辺りに顔を埋めた。











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