早朝だった。宿直明けのイルカは僅かな回り道を選んで凍った林を抜けていた。
イルカにとってこの林は懐かしい場所だ。手を使わないでどこまで木を登れるかを競い、日が暮れるまで仲間達と駆け回った遊び場で、ここが里の外での任務帰りの者達のための通路であると知ったのは随分後の事だ。
里の大門からはこの林を抜けると受付所へのショートカットとなる。だからこの場所を縦に歩く者は足早だ。泥や汗、時には血で汚れた体を早く清めたくて堪らないといった風情で俯いて歩く。緑が身を包む独特の気配を楽しみながら横切る者は、大抵が今のイルカのような教師だ。
林の中の細い小道は整備されておらず、所々に昨日の雪が溶けて再び凍ったものが溜まっている。そして道の両側には霜柱が並んでいた。林を分け、道を横切るイルカは霜柱の上に控えめな足跡を付けた。
じゃくり、と小さな音。靴底の感触が意味も無く楽しい。子供の頃は目に付くもの全てを友達と争って踏んで歩いたものだった。しかし今はそれはしない。したい気持ちはあるのだが、この林の霜柱はかつてのイルカのような悪ガキ達のものだと思っているからだ。
「ナルトも来るかな」
白い息が濃く漂う霧と混じる。頭上から差し込む日は弱弱しくしかし清潔だ。
「サスケは来ないかな」
サクラが誘えばいいのにな。ナルトが誘えばいいのにな。
林はいつも葉を付けている。そういう木だけを植えてある。身を隠して通り過ぎたい者のために、かくれんぼをしたい子供達のために。
里に戻る者のための道と、交わる場所に出た。イルカは一旦その道の真ん中に立ち止まって大門の方向を眇め見た。
「霧、か」
意味の無い呟きはあっさり乳白色の空気に溶けた。霧を吹き飛ばしたくて強く息を吐き出し、より一層白く目の前を曇らせてイルカは笑った。
「子供、だな」
自分ではなく、前方に僅かな影を作る者の事だ。その影は道の端を一直線に、霜柱を踏みながらのんびりと歩いて来る。しゃくしゃくと小さな音とはかないような気配に、アカデミーに向かう子供だろうとイルカは微笑み、おはようを言うつもりでその場で待った。
「イルカ先生?」
霧の上に随分距離がある。しかしはっきりとそう呼ばれたのがイルカの耳に伝わった。
「あれ?」
影は早足になり、しかし丁寧に霜柱を踏み尽くしてイルカに寄って来た。
「珍しい所で会いますね」
「カカシ先生」
びっくりしてイルカは目の前の男を見つめた。彼はいつもと違って大きな暗色の布を頭からすっぽりと被っていた。それでも相変わらず、右目だけを見せているのが可愛らしいと思ってイルカは苦笑した。
「任務、早く終わったんですね。お帰りなさい」
カカシは目を細め、小さくただいまと言った。
「……思ったよりも相手が先走っちゃってね。待たずに済みました」
予定よりも三日ほど早い帰還だ。二人はほっと顔を綻ばせて見合った。まだ霜柱の上を歩きたがっている様子のカカシのために、イルカが端に寄った。
「子供が歩いているんだと思いましたよ」
しゃりっと音が聞こえる度に、イルカは笑いを堪える。
「え、どうして?」
「あんな風に霜柱を踏みまくるのは子供に決まってますから」
いやあ、と言ってカカシは照れたような笑いの息を吐く。イルカの口元に流れる霧の温度が僅かに上がったような気がした。
「一度やってみたかったんです」
「いつもやってるんでしょう」
「……時々」
はは、と笑ってイルカはカカシの顔を見た。見たつもりだったが横にカカシはいなかった。彼は、イルカから一歩遅れた場所にいる。疲れているのかと思ってイルカが速度を落とせば、彼もぴったり同じだけ落とした。
「俺、子供時代が短かったからね」
急に、凍っていた嗅覚が溶けた。古い臭いだけだったがイルカの鼓動は速くなる。
「いつもおっさん達と一緒だったからそんな事出来なくてね。アカデミーに向かう子達が、きゃっきゃ言って踏んでるの、じーっと見てたよ」
「で、今踏む訳ですか」
「踏むんです。楽しいね」
カカシは決してその一歩を詰めなかった。ひっそりとイルカの斜め後ろを歩き続ける。霜柱が壊れる音が奇妙なほど耳の近くで聞こえ、イルカはぐいっと振り返った。
「額当て、どうしたんですか」
布を喉の下で掻き合わせ、こもった声でカカシは、いやあ、とまた言った。その額には一筋だけ髪が降りており、染めているのか黒っぽかった。
「布が弱って切れちゃいまして」
あ、でもちゃんとここにありますと、カカシは胸を叩く。
「口布も無いじゃないですか」
「たまには気分が変わっていいかなって」
「カカシさん」
イルカが踏み出すとカカシはすっと下がった。額の髪は赤黒く固まり凍る一本の針のようだった。
「どうしてそんなに嘘が下手なんですか」
「あなたが好きだからですよ」
カカシはほんのりと笑った。そしてイルカの視線を追って額の髪をそっと布に押し込んだ。
「……そりゃ、どうも」
そっけない言葉を返してしまいイルカは慌てた。
「いや、あの、俺、」
「あなたに触りたいなあ」
笑みを崩さずにカカシは言った。一つ息を飲み込み、イルカは眉を下げた。
「触って、いいですよ?」
「だめです」
「カカシさん、」
だめですよ、とカカシは笑い、イルカは言葉も飲んだ。被った布を掻き寄せる指先はきつく握りこまれていて見えなかった。にこにこと笑うカカシを見つめ、俯き、じゃあ早く帰りましょう、と呟いてイルカは林を横切る方向に足を向けた。しかし、被った誰かの血で全身を凍らせながら延々と霜柱を踏み続ける霧の中の影が過ぎって、勝手に右手が動いた。
「ありがとう」
伸ばした手は言葉だけを掴んだ。カカシの姿はどこにも無く、薄い血の匂いが霧と絡まってカカシの居るべき場所にわだかまっていた。
この道は、報告に向かうための道なのに。
イルカは、カカシがこのまま自分の背を見ながら家に付いて来るのだと信じていた。連れて帰って怪我を確認して風呂に入れてやって食事を食べに行ってそれからと、一眠りする予定が随分狂ってしまう事を喜んでいた。
「馬鹿だなあ」
霧の中にいないのはカカシだけではなく、世界に誰もいないようだった。
馬鹿だ馬鹿だと呟きながらイルカは突っ立って顔を巡らせたが、一つ溜息を吐くと林の横断を再開した。とりあえず、さんまと茄子を買って帰ろうと思う。
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