たたたたた、と階段を駆け下りながらイルカはぐるぐると思考していた。
そう聞いていた。しかし、これほどヒドイとは思っていなかった。
「いや」
はた、と足を止めてイルカは呟く。
「それほども何も、俺が気にすることじゃねえな」
動揺して当たり前だが、し続けるほどのの理由も無い。イルカは冷たい手すりに手の平を置き、一呼吸して落ち着くと今度はゆっくり歩いて降りた。
その夜もカカシはイルカの自宅にやって来た。どっこらしょ、とちゃぶ台の前に座り、座布団をかき集めて散らばした上に横になる。
「お茶飲みますか」
「はーいー」
のんびりとカカシは答え、斜めになった姿勢で新聞を読んでいる。
ま、疲れもするだろう、とイルカは濃い目に入れた茶をカカシの斜め上方に置き、自分もちゃぶ台に座って茶をすする。
「カカシ先生」
「はーいー」
「最近よくウチに来られますけど、大丈夫なんですか」
「大丈夫ですよー」
ナニガ、くらい聞けば、とイルカは舌打ちを茶をすする音で誤魔化す。
「飯、魚と味噌汁ですけどいいですか」
「魚好きですー」
「じゃ、風呂、先入って下さい」
ハイ、と起き上がり、カカシは大人しく風呂場に向かっていく。褪せて毛羽立った畳の上を音を立てずに歩く靴下が、片方だけ裏返っているのが目に止まった。イルカの血圧が一気に上がりそうになったが、堪える。
俺が気にすることじゃねえ。靴下くらい裏でも表でもかまわん、俺だって時々やるさ。
ふん、とイルカは台所に戻る。
味噌漬けのサワラとほうれん草のおひたし、味噌汁は茄子とネギ沢山。たぶん全部カカシの好きなものだ。そんなメニューにしてしまったことがアホらしくなったが、買ったものは仕方ないし食い物に罪はない。
鍋に水を入れて火にかけ、だんだんと荒っぽくネギを刻み、ほうれん草を洗う。沸いた湯に放り込んで根っこ一分、葉っぱ三十秒。カカシの好きな固さに煮て湯をきり、冷水に放り込む。そうしてサワラから余分な味噌をこそいでからコンロの網に乗せた。
隣の火口でまた湯を沸かし始め、ダシの袋を放り込む。冷蔵庫から昨日の筑前煮を取り出しレンジでチン、台所の窓辺で育てている木の芽を一枚、パンと叩いてからその上に置き、サワラを裏返し、ほうれん草の水を絞る。
絞り過ぎた。
くっきり自分の指の跡の付いたほうれん草をまただんだんと乱暴に切り、皿に盛ってポン酢をかけ、指の跡を消すようにかつおぶしを山盛に乗せる。沸いた湯からダシの袋を取り去ってサイの目にした茄子を放りこみしばしサワラの面倒を見て、ネギを入れて火を止め味噌を溶かす。溶かし終わったら焼けたサワラを皿に取って味噌汁を椀によそい、全てを大きな盆に乗せてちゃぶ台に向かうと、カカシはさっきと同じ格好で寝そべり、新聞を読んでいた。
間違い探しみたいだな。
イルカはその姿を見ながら夕餉を並べる。
少し湿っているのだけが違っているところ。
ああ、背景も違うか。
点けっ放しのテレビはニュースからやかましいバラエティーに変わっている。
もう一度台所に戻って炊飯器を下げて戻ると、カカシは起き上がって箸をじっと見ていた。
「どうぞ」
「いただきます」
「いただきます」
テレビがやたら主張し、住人はほんの微かに皿とちゃぶ台が擦過する音を立てる。忍だから咀嚼音など一つも立てない。常からそのように行動するものだ。
「イルカ先生、怒ってますね」
カカシがぽつりと言った。
「別になにも」
イルカは答え、席を立って冷蔵庫からたくわんを取り出す。戻ってカカシの茶碗にごはんにおかわりをよそってやり、自分にも。さすがにたくわんは音を立てて齧り、ぽりぽりぽりぽりぽりとイルカの音に誘われてカカシも同じ音を鳴らす。
「怒ってますよ」
「怒っていません」
「何があったんですか」
「何も」
「大丈夫ですよー」
「は?」
「さっき聞いたでしょ、イルカ先生の家に居て大丈夫かって」
「答えも聞きましたが」
「俺の家はテキトーでいいんです。忍犬の世話はパックンに頼んでますから」
「そのパックンの世話は?」
「あいつは自分でしますから」
「……そういう事を聞いたんじゃねぇよ」
茶碗をガツンとちゃぶ台に置き、いきなりイルカはキレた。
「イ、イルカ先生?」
「さっさと帰ってオトコ漁れ、この淫売が!」
イルカは吐き捨てると立ち上がって上着を掴み、狭い玄関に向かう。
「あの……」
「うるせぇ!」
「ここ、アナタの家なんですから、俺が出て行くのが筋ってもんでしょ」
がちゃん、とイルカはノブを壊しかねない勢いで回す。
「アンタと一秒でも同じ空気、吸いたかねんだ!」
びりびりと、安普請を振動させて扉は閉まった。
という事は、すぐ帰って来る事はなーいね。
夕餉の続行。それを選択したカカシが一人でたくわんをぽりぽりぽりぽりぽりと齧っていると。
がちゃんどかん、と扉が開け閉めされ、
「アンタには恥ってもんがないのか! 追って来い、馬鹿!」
と、怒鳴りながらイルカがちゃぶ台の脇に立った。
予想外の帰宅に箸を持ったままカカシはイルカのぶるぶる震える拳を見上げ
「無いですよ、恥なんて」
と平気な顔で言ってまたたくわんをぽりぽりぽりぽりぽりと齧った。当然予期していたイルカのびんたを受けてカカシの茶碗と箸が吹っ飛び、カカシはたくわんと一緒に舌を噛んで、ばたりと倒れた。
「スイマセン」
「黙れ、馬鹿!」
カカシは仰向けにされた犬か猫のようにイルカを見上げてのんびりと言った。
「なんで俺はアンタの好物を作ってんだ、あァ!?」
イルカは怒鳴り続ける。カカシはとりあえず口の中のものを咀嚼して飲み込んだ。
「なんでほうれん草もメシも旬の魚もアンタの好きな加減で料理してんだ、俺ァ!?」
「次からアナタの加減で俺が作りますから」
許して下さい、と言うカカシの声に被せ、許すか、馬鹿、とイルカは大音響を発する。
「何人目だ、コラ、俺は何人目に気の毒がられたんだ、あァ!?」
「知りません」
「ふざけんな、十一人だ、誰にでもケツ振ってんじゃねぇ、この淫売が!」
カカシは踏みにじられるかと身構えたがイルカはどしんとカカシの腹の脇に一歩進んだだけだった。
「スイマセン、癖なんです」
「なにが癖だ、ナメてんのか、アァ!?」
がば、と胸座を捉んでカカシを引き起こす。
「目に付いたヤツとヤっちゃうんです、スイマセン」
「ここ来るまで待てねぇてのはどういう了見だ!」
「待てないもんで」
「答えになってねぇ!」
ぎりぎり襟を締められて仰け反るカカシの喉仏がくくっと動いた。
ふっふっと声が漏れてカカシの体がびくびく震える。喉を上げ吊り上げられ、やっと膝で立っている姿勢で、カカシは笑っていた。
「一人目で怒って良かったのにー」
笑うカカシをびたん、と畳に叩き付けてイルカはがっくりあぐらをかいた。カカシは体を横にして『くの字』に曲がり、その形と同じ音を発して笑っている。
「十一人分も我慢して、堪忍袋が破れちゃった?」
言葉も出ず、イルカは首を垂れたままだ。
「ねー、すごいねえ? 上忍さん相手にー」
笑いを止められずにカカシは揺れながら這って行き、イルカの膝に手を置いた。
「ねえねえ、俺にこんな事して殺されない、なんて思ってるの、アナタだけなんですけどー」
ずり上がりながら唇の端から血を垂らし、カカシはイルカの腿の上に座った。ふふふふふ、と耳元で笑って抱き付く。
「もちろんその通りなんですけどー」
「……カカシさん」
「俺ねえ、戦場がねえ、好きなんですよー」
嬉しそうにカカシは両足をイルカの腰に絡めた。トレーナーを腰からめくり上げて指を這わせ、比較的新しいイルカの背の傷を触る。
「カカシ、さん」
「興奮するんですよー、死にかけの敵さんおっ勃ったせててヤることもしょっちゅうー」
だから十一人じゃないですよぅとカカシは歌うように言った。
「イルカ先生はかわいそーう」
「カカシさん……」
「オレに見込まれちゃってかわいそうー」
「……痛かった?」
イルカの手が頬に触れ、カカシはそれにすり寄って笑った。
「痛かったですよー、腹立つから殺しちゃおうかなあ、イルカ先生」
いいよ、とイルカは呟いてカカシの腰を抱いた。
「いやですよ、本気にしちゃ」
きゅ、と背中の手に力を入れたカカシはイルカの顎の先にキスをした。
「アナタを殺すのは最後ですから」
ていうかー、アナタに殺されたいんですよー、とカカシは言った。
里中のオトコ殺してからオレを殺しに来て下さいよー
オレが誰とも寝られないように、里中のオトコ殺して下さいよー
それで最後に抱きながらオレを殺して下さいよー
きっとすごい気持ちいいよねー
最後の方は涙声になり、そしてカカシは本当に泣き出した。
「カカシさん、泣かないで」
「ゴメンナサイ」
わんわん泣き始めたカカシをイルカはその場に横たえた。カカシが泣き止むまで背中を撫で、泣き止めば眠らせるために撫で続ける。
「ゴメンナサイ、モウシマセン、ステナイデ」
イルカの胸で無意味な言葉が告げられた。
しばらくカカシはぶつぶつと寝言とうわ言の間をさ迷っていたが、眠る間際に妙にはっきりと言った。
「ねえ監禁して。大事に飼って」
その後の反省はやはり、イルカだけがしたらしい。
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