凪の浜辺 2

                     ◆


 真っ暗な部屋の中、イルカはカカシの吐く息の音を聞いていた。早く遅く時に止まる、生きているという事実を証明する音。イルカの息もまた、早く遅く時に止まる。
「何、笑ってるの」
 イルカに好きに耳を齧らせ、黒い髪に指を通しながらカカシは呟いた。
「ん……。歌が……」
「歌?」
 ――この世に二人だけ。
 甘美ではない想像だった。冷たい闇に取り残された二人が、互いの体だけを目印に淫らに染まる。我侭で寂しく、破滅的とも言える淫靡。
 カカシは動きを止めて不思議そうにイルカを見上げている。その顔に滴っている汗を触り、なんでもないから、とイルカは首を振った。体の中で張り詰めている肉が跳ねるように震えて続きをねだり、まだ笑みの形を作る唇を額に押し当てながら膝に力を入れる。きつく締めながら根元まで下ろし、受け取るように支える手のひらに腰を預けてカカシの脇腹に足を絡ませる。鼻先で飛び散る銀の髪が、飛び火したようにイルカの脳裏で舞った。
 酷薄そうな面立ち、綺麗に並んだ歯、敏感で意地の悪い性器、カカシの全ては今自分のものだった。歯を食いしばって腰をねじり情熱を叩き付けながら、イルカは薄く目を開け、僅かに開いたカーテンの隙間に視線を流した。
 ――停電、終わらない。
 明かりを失った黒い里。その上に輝くはかない銀の光。
 ――似ている。
 捕らえどころが無く、しかし美しい光景はカカシに似ていた。
 ――里と……寝ているようだ。
 ある種グロテスクな想像だったが、正しい表現なのかもしれなかった。戦いゆくカカシが守るべき里とイルカを同一視するように、イルカにとってカカシは、里は、抱きながら抱かれる唯一の居場所だった。
「イルカ」
 じん、と染みるような低音。無表情に近い、真剣な顔のカカシが癖のように首を傾げ、熱心にイルカを見つめていた。
「カカシ、さん」
 他人のような声だった。欲情に掠れ金属的な高音の息が混ざった声。
「今日は、なんか」
 ふう、と息を吐き、カカシはイルカの背中に両手を這わした。腰骨から背骨へ、そして真ん中辺りで戸惑うように止まる。
「すごいね」
 困ったように、しかし嬉しそうにカカシは笑った。労わるように指がなぞっているのは教え子のために受けた傷。体が熱を持つとその傷が僅かに痛むのだと知っているのは、イルカ自身の他にはカカシだけだ。子供じみた秘め事を思い出してイルカは微笑みを深くする。
「あなたが」
 喉を上げ、悦びの吐息を聞かせながらイルカは囁く。
「あなたが、いてくれて嬉しい、ん、です」
「イルカ……」
「こんなに、いやらしく、なれるから」
「……」
 視線を合わせ、唇の先を合わせて呟くように笑い合った。そして僅かに目を細め、俺もすごいよ、と言いながらカカシは膝立ちになった。振動にイルカが全身を硬直させると、ああきつい、と眉を寄せながら背中をそっとシーツに置く。その丁寧な仕草を裏切るように、溶けきった場所を崩す激しさで性器が深く突き入れられた。嗚咽のような声を漏らしながら、イルカは自ら両膝の裏に手を入れて肉音を聞かせる部分をカカシに見せつける。上半身をやや立て気味にしたカカシは揺れているイルカの性器を握り、太腿の裏を何度も撫でる。粘膜の擦れる音が息よりも大きく鳴り始めた。
 極まっていくカカシはイルカを射精させようと躍起になっていた。その姿は滑稽であり、かつ感動的にイルカの胸を打った。冷静になった分、かつては波に呑まれるように翻弄された恋人が鮮やかに目に映る。決して思いが薄れた訳でもなく別れるなど考えもつかない。それでも、かつてあった何かが失われたという思いが、緩慢と二人の間に漂うようになったのはいつからだろう。だから、カカシはこうやって必死にセックスをする。自分はそれに感動する。
 カカシが何かを言い、イルカは耳を澄ました。お互いの体が発する様々な音が大き過ぎて聞こえない。きつく収縮するまぶたが視界を奪い、本能的な怯えに掴むものを求めて両手を伸ばす。指に絡みつくのは髪、爪が掻くのはうなじ、カカシが頭を垂れて望みを叶えてやった瞬間、イルカは硬直しながら射精した。体の中から湧き上がる光の飛沫のような絶頂感に全感覚を支配され、熱い首筋を抱きしめながらイルカは僅かの時間、意識を放り投げた。



                     ◆


 濡れた肌を滑って両手がシーツに落ち、カカシの胸がイルカのそれに重なった。うなされるように名を呼びながら、乾いた唇がイルカの口の端に触れる。重い腕を持ち上げて背中を抱き、侵入してくる熱い舌を舐めながらイルカは荒く息を吐いた。惰性のように目的は無く、しかし切実に舌を絡ませる。上下を入れ替え歯列を辿り、唾液を飲ませ合ってからゆっくりと唇を離した。
 全身を重くする射精後の倦怠感と格闘しながら、胸に這い上がってくる腕を抱きしめる。首を行き過ぎて頬をくすぐる指に視線を投げると、イルカの背に半分乗り上げながら何も言わずに微笑むカカシと目が合った。その、浮き出した涙袋が薄幸そうに見え、イルカは視界の中で揺れている人差し指にそっと歯を立てた。確かにそうなのだろう。家族に縁無く育ったこの男は、やはり家族に縁の無い自分を選び、自ら家庭を作ること無く死んでいくのだから。そう、自分はこの男を、絶対に離しはしないのだ。
 背中をカカシの胸に預け、さらさらと肩を撫でる腕を撫で返し、イルカはまた、世界に二人だけという甘い言葉を想起した。それだけでは生きていけないということはよく分かっている。むしろカカシよりもイルカの方が、外の世界を必要とするタイプの人間だ。だからこそ一時、何もかもを預けて酔える他人が存在するということは幸運なのだとイルカは思う。
 慰めるような愛撫に意識を曖昧にして、徐々に冷めていく体温を惜しむ。月はカーテンの隙間から逃げてどこかに行ってしまった。明かりはまだ戻らない。反射的な寂しさに浸って沈むようにカカシに体重を預けていると、耳の先を小さなキスが突付いた。
「眠った?」
 慎重に吐息のような音を選んでカカシが言った。
「いいえ」
 顔だけで振り返ると、ちろりと頬を舐められる。
「まだ点きませんねえ」
 カカシの腕の中で体を回し、イルカは鎖骨に向かって呟いた。両手を伸ばして首を抱き、頼りない手触りの髪を撫でていると、見て、と肩を揺すられた。カカシの腕がイルカを越えて伸び、カーテンの隙間を広げている。
「あ、すごい」
 雲が去った黒い空には大量の星が輝いていた。霞みのように天を横断する星の群れの彼方に、追い出されたかのようなか弱さで、尖った月が遠慮深げに光っている。
「灯りが無いとこれだけ見えるんですね」
 感心したように呟く男の腕を解き、イルカは膝立ちになって伸び上がった。
「こんなに隠れてたなんて」
 窓の桟に手を掛け冷たいガラスに顔を近づける。あまりにも多くの星が瞬くせいで、空全体が動いているようにも見えた。
「いいもの、見られたね」
 同じように伸び上がって背中に胸を密着させる男に視線を投げ、里を出る機会の多い人にはこんな空は珍しくもないだろうと言おうとした。しかし、自分の肩越しに純粋そうな目を天に向けるカカシを仰いでイルカは言葉を飲み込んだ。
 任務の途中で空を心に移すような、散漫な人ではないのだ。
 良くも悪くも一途な男に向き直り、イルカはその背中を強く抱いた。
「髪に、星が映ってる」
 長い指が梳くように髪を撫で、つむじの上にこつんと顎が乗った。
「……イチャパラの台詞ですか?」
「あー、バレたか」
 カカシの喉が嬉しそうに鳴る。
「でも、本当だーよ」
「俺の柄じゃないですって」
 そうかなと笑い、イルカを抱いたままカカシは跳びこむようにベッドに横になった。絡まりながら笑い合い、布団を引っ張り上げる。互いの足先を暖めるように重ねて他愛のない会話を続けながら、イルカは銀を纏った顔を見上げた。
 ――あなたの髪にこそ星が降りていますよ。
 胸の中だけで言う。自分には似合わない台詞だ。胸の奥底に沈んでいく星を見送りながら、イルカは暖かい体に身を寄せ目を閉じた。おやすみ、と優しい声が耳元で囁いた。


 その途端、ぱちん、ぴりりと蛍光灯が瞬いて白々とした人工の光が部屋を照らした。
「点いた……」
「点きましたね……」
 顔を見合わせる。艶のあった空気は跡形も無く吹き飛び、あからさまな光が無遠慮に互いの顔を照らした。凶暴なまでに隅々までを暴く白い光は、目の奥を刺すように眩しい。
「あー、台無し」
 本当に残念そうにカカシが言った。それに吹き出しながらイルカは起き上がった。
「スイッチ、切っておいたら良かったですね」
 明かりを消して回って改めて暗闇を呼んだが、その色は種族が異なるほどに先刻までのものとは違っている。イルカ先生早く、と呼ぶカカシの声を辿り、その唇を尖らせた顔にイルカはもう一度吹き出した。
「なんて顔してるんです」
「エッチなイルカ先生がー」
「……」
「すんごかったのにー」
「……点いた時には終わってたじゃないですか」
「そういうことじゃないんです、そういうことじゃ!」
 悔しがるカカシを横目に、イルカは安堵を覚えていた。もっと好きなものが戻ってきたからだ。二人の間に流れる、温く優しい時間の味。カカシとでなければ作れない当たり前の時間の帰宅を、イルカは歓迎した。
 でも、今夜のようなセックスは悪くない。カカシと同じに刺激を求める気持ちはイルカにだってある。だから、僅かに気分を戻してカカシの鎖骨を軽く噛み、耳元で囁いてやった。
「今度、さっきみたいな星空が見えるって評判の、温泉に連れて行ってあげますよ」
 イルカの提案に半目を向け、ごそごそと向き直ったカカシは頬を両手で包んで額を合わせた。
「……絶対ですよ?」
「はいはい、機嫌直して、って、消えたのも点いたのも、俺のせいじゃないんですけどね」
 あやすようにカカシの背中を撫でる。まだ不満そうに尖っている唇にキスを贈り、今度はイルカが一日の終わりを教えた。
「おやすみなさい、停電が好きなカカシさん」
 はーい、停電だとやらしいイルカ先生、と脱力した声が答える。今日だけですよと呟くイルカを胸に抱き込み、また消えたらいいね、と少しだけ笑ってからカカシは目を閉じた。イルカも喉の奥で笑い、羽目を外した夜に別れを告げた。

 ただ、日々を越えていくだけの人生だとしても、二人ならば幸いだと思いながら。





 (終)






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