そんな気がしたイルカはベッドの端まで転がった。窓の外を覗いた途端、イルカの口角は笑みの形に上がった。
イルカのアパートからアカデミーに続く暗い道の後方に、一本の街灯が丸い光を土に落としていた。呪陣のようなその円の中、闇から抜け出した男がぼうっと姿を現した。
窓からイルカが見下ろしている事に気が付いているのかいないのか、男はポケットに手を突っ込みゆらゆらと肩を揺らし、極普段の姿だった。
頭に浮かんだビジョンそのままの男にイルカはそっと呼びかける。
カカシさん。
目の前のガラスが曇り、少し赤くなったイルカの顔を消した。
このところ、自分の周りは「先生」や気の置けない名を呼び捨てる仲間ばかり。「さん付け」をするような人は少なく、むしろ飛び越して「様付け」や「格付け」を使うのが常だ。自分もつい先だってまではあの男を「はたけ上忍」と呼ばわった。
カカシさん。
もう一度イルカは窓を曇らせ、その柔らかい響きにくすぐったく首を竦めた。この「さん」は、八百屋のおじさんやおばさんとは違うのだ。当たり前の事を思って少々体を捩り、悶絶を済ませたイルカはベッドを飛び降りた。
偶然のように道の真中で行き会おう。
そうしたら、家に寄ってくれるかもしれない。彼の人がどうしてこんな場所を歩くのか、イルカには分からない、しかしあの様子では急いではいないのだろう。もしかするともしかすると、俺の家に来てくれたのかも。いつかの別れ際、あれです、と一度きり指差したこの部屋に。
「カカシさん」
発声練習にも余念なく、上着を掴むと玄関に向かってドアを。
「イルカ先生」
三センチほど飛び上がってイルカは上着を取り落とした。
思い出したかのように、ドアの向こう、とろりとカカシの気配が伸び上がる。
「イルカ先生、いまーすか」
子供の、イルカちゃん遊びましょ、に良く似た声でカカシは言った。
「はいはいはい、」
イルカは急いでドアに寄って鍵を外した。さすが上忍、あの距離を一息か、とイルカは素直に喜んだ。この部屋を目指して彼はやって来た。
「遅くにすみません」
「いえ、いいんです」
ノブを回して狭く開いた扉の隙間に、水がどっと流れ込むようにカカシの肩が入ってきた。たたきにサンダルが、たし、と乗る。
「こんばんは」
カカシは俯き加減で囁いた。傾いだカカシの姿にイルカは戸惑い、上がり縁を裸足の指で掴んでその顔を覗いた。カカシはいつもより目を細めて涙袋をふくり、と盛り上がらせ、自分のサンダルを見ていた。
「こんばんは、カカシ先生」
間違えた。ああ、せっかく練習したのに。
苦笑しかけたイルカの腕に、するするとカカシの手が伸びた。
「あ、の、?」
イルカは冷たい石の上に引き出されてたたらを踏んだ。二人立てば満杯の小さな四角の真中で、カカシはイルカにつむじを見せていた。
「こんばんは、イルカ先生」
こんばんは、と繰り返しながらカカシは項垂れた額をイルカの胸に押し付ける。いつもの事、当たり前の事、そんな強引さと穏やかさでカカシの腕が初めてイルカの腰に触れた。
「カカシ先生?」
それでいよいよ傾いだカカシは、イルカの肩に顎を置く。どうやら彼は、最後のダッシュで力尽きたらしい。
「どうしたんですか」
イルカの後ろでゆるやかに両手を組んで、カカシは目を閉じていた、閉じているようだとイルカは思った。左肩に乗ったカカシの顔は、額当てとマスクに邪魔されて見るべきものが無いからだ。
「こんばんは、イルカ先生」
支柱に巻きつく朝顔のように、カカシは柔らかく背に絡み、銀の猫毛に喉仏をくすぐられたイルカは微笑んだ。
「こんばんは、カカシ先生」
笑い含みでそう言ったイルカは、蕾んで散りかけているカカシの腰にちんまりと手を置いた。支柱と蔓を優しく繋ぐ凧糸のように、イルカは生真面目にカカシを抱いた。
「立っていられません」
「それなのにわざわざここまで?」
「眠いです」
「くたくたですね」
「写輪眼を使い過ぎました」
「命を削ってはいけませんよ」
「それが忍なんです」
「命を削ってはいけません」
「イルカ先生、ただいま」
おかえりなさい。沢山の言葉を飲んで、イルカはそれだけをうんと甘く囁いた。
お帰りなさい、お帰りなさい。波の国はどんなでしたか、何を背負って戻ったのですか。
「ねえ、カカシ先生」
イルカは殊更に朗らかな声を聞かせた。
「カカシ先生、お布団、敷きましょうね」
子供に言い聞かせるようにイルカは言った。
「サンダル脱いで、着替えして、寝ましょうね?」
はい、とカカシはがっくり顎を落として頷いた。
それで支柱はずぼりと抜けて、宵っ張りの朝顔を引きずりながら寝室に移動した。
よっこいしょ、とカカシをベッドに寝かせて靴下とベストを脱がせると、掛け布団を引っ張って被せる。点けっぱなしの天井の明かりが眩しいのか、カカシは赤ん坊の動きでごしごしと右目を擦ってイルカを見上げた。
「イルカ先生、どこに寝るーんでーすか」
もったりと言うカカシに笑い、イルカは横を指差す。
「布団敷いて寝るんですよ」
「一緒に寝ましょうーよー」
半ば眠ってカカシは言った。おそらく意識はあるのだろう、だからこそ、酔いに紛らす理性と同じにカカシはきっぱり寝言を言った。
「だっこ」
だっこ、だっこ、と呟くカカシにイルカはあっさり負けた。ちょっと待ってて下さいね、とふさふさの髪を撫でると大急ぎで玄関に走って鍵を閉め、居間の明かりを消して戻ってくると、寝室の電灯もぱちり、と消した。
「くらーい、だっこー」
「仕方ないですねえ」
あなたが言ったんですからね、とそそくさと隣に入れば、カカシはまたするすると巻きつく。イルカの丸い後頭部をカカシの手が辿り、括った髪の流れに沿って根元につるりと落ち着いた。
「俺がだっこされてますよ?」
「いいーんですー」
耳たぶの下で囁くカカシに笑う。寝苦しいのか、カカシはイルカの肩でもがいて面布を押し下げた。同じようにして額当ても外してしまう。そして生真面目な形で仰向けになっているイルカの耳の後ろを、ちゅ、と小さく吸った。
耳の後ろっていうのは素のままの体臭が篭るんだっけ。
そんなことを思い出してイルカは顔を赤くする。まだ風呂に入っていなかった。
「駄目ですよ、カカシ先生」
「んー」
カカシは何度も音をさせ、明日の朝には消えてしまうような、かすかな痕をその場所に残した。
「おやすみなさい、カカシさん」
「イ、」
と最後の溜息を吐き、半分イルカに乗り上げた格好で、カカシはくったりと力を抜いた。
そっと、そっとカカシの体をほどき、肩に布団を着せ掛ける。
イルカは横向きにカカシの顔を覗き込み、そしてカカシがさっきしたように、彼の耳の後ろに唇を寄せた。
カカシは白い花のような匂いがした。そういう石鹸の匂いがした。
きちんと体を洗ってからここに来たらしい。なのに忍服を着ているのが可笑しくて、イルカは唇だけで笑った。それにむくれたように、乳を飲む赤子が母親の乳房をまさぐるように、カカシの手が密やかにイルカの胸に這う。
片手を頭の下に敷き、もう片方でカカシの肩を撫でながらイルカは目を閉じた。白い花の蕾みが部屋中に広がり、イルカの上に降ってくるようだった。
どんなに可憐な蕾みでも、その中にはひとつひとつ、いやらしく絡み合ったおしべとめしべが収まっている。それと同じように、イルカに降り注いでは慎ましく開く花の中からは、ひとつひとつ糸のような血が垂れた。
イルカの鎖骨の前に、ぽとりと落ちたカカシの顔は白く、閉じた目がくるくると瞼の下で動き始める。
夢。そんなもの、見なければいいのにね。
左目の動きがより速い。興奮が未だ収まらない写輪眼が、花に隠された錆の匂いに猛っているようにイルカは思った。宥めるように唇の先で触れた、その粘膜越しに動く軟いものは、何か卑猥なものの感触に似ていた。
ふ、と息を吐いてイルカは面布が溜まった温い首筋に鼻を押し当てる。
カカシそのものの匂いは薄く、水っぽい石鹸と洗っても落ちない錆ついた臭気が、代わりとばかりに立ち揺らめいている。
長い面布を鎖骨まで押し下げ、イルカは自分の匂いを押し売るように舌先で目の前の肌を湿らせた。そして届く場所を吸った。
色素の薄い皮膚の上には掠れた血のような痕が残り、暗い部屋の中でも見て取れた。一晩では消えそうにもないな、とイルカは微笑む。
隠れて見えなくなるのだから、ずっと引っ付いておいで。
三つ吸ったその痕は、瞼に隠された眼の文様に似た。
満足げに微笑むと、イルカは銀の猫毛を喉に抱き込み目を閉じた。首に写された眠らない文様が絡まり尾を引きいつまでも自分を見ているように思いながら、イルカはカカシの夢に寄り添う。
NARUTO TOP