梅見御前。
本日のビックリドッキリ弁当のテーマだ。
膝の上に広げた弁当箱の中に展開する職人仕事に、俺はうっすらと涙を浮かべた。
真っ白のコシヒカリの上にはイカナゴの佃煮と淡いピンクのでんぶで見事な梅の木が描かれ、サヤエンドウを繊細に加工したウグイスが、今にも枝から飛び立とうとしている。この生き生きとした翼の張り具合は筆舌に尽くしがたい。豆やら昆布やらゴボウの肉巻きなどで作られた梅見をしている大衆が梅の下に群れており、下町の風俗を小粋に織り込んだ活気と人情溢れるのどかな冬の一幕が表現された至高の作品だった。
それに思い切り箸を突き刺し五分で完食し、俺はげふっと溜息を吐いた。いや、間違いなく溜息だ。
とうとう二ケ月が経ってしまった。冬晴れの空をぱたぱたと飛んでいくスズメを眺めながら、俺は我が身の不運を反芻した。
カカシはあいかわらず、高級食材にまみれた食卓を毎日用意し続けている。完璧に計算された栄養バランスのせいで太ることすらなく、同僚からは『良いカノジョを捕まえたな』などと言われる始末だ。違う、違うんだ、俺が捕まっているんだ!
しかし、最近は俺の罵倒も力弱い。カカシは俺に飯を与えては、ただ黙って居間で寝起きしているだけだ。無害、いやむしろ限りなく有益に近いナニカになろうとしている。
「うわーあーそれってナーニー……」
俺は冬枯れた芝生の上にばたりと倒れた。
「慣れってコワイ……」
目的が全く読めない。カカシにとって何の益も無いように思える。しかし上忍は今夜も米を研ぐのだろう。
俺はまたげふっと溜息を吐き、仕方なく起きあがろうとした。その時だった。
「ちゃんと教えてやったろうが」
背後の茂みの奥から聞こえてきたのはアスマさんの声だ。そしてその側の気配。俺はそれだけなら上忍にもなれるだろう完璧さで自分の気配を消して芝生と同化した。気付かず通り過ぎてくれ。鉄面皮のような無表情は家の中だけで充分だ。
「上手くいかないんだよね。何がいけないんだろう」
「面倒くせえ……」
「そう言うなよ」
抑揚の無い声が近付きかけ、少し離れた場所で止まる。くっそー行けっつーの!
「笑ってくれないんだ」
何やったんだおまえ、とアスマさんは笑いながらタバコを替えている。
「元々笑わないオンナなんじゃねえのか? たまにいるぜ、そういうの」
「ええーそんなことないけど。フツーの人だよ」
「フツーって言ってもな」
……ナニ、女!?
俺は全神経を耳に集めた。
「フツーったらフツーなの。ねー、どうしたらいい?」
「あー面倒だ面倒だ」
念仏のように繰り返すアスマさんの声に鼓動が速まってくる。女、女だと? 俺の家に居座っておきながら女だと?
「笑ってくれないと、勃たなくってねえ」
ぶっと吹き飛んだタバコをひょいと捕まえ、アスマさんの口に戻すカカシは相変わらずの無表情だ。俺はむかっ腹を立てながらぴったりと芝生に伏せる。
「何に欲情してんだよ」
「いいじゃない、何だって」
カカシは両手をポケットに突っ込み、ぼんやりと空を眺めている。アスマさんはふうっと煙を吐いて苦笑した。
「しょうがねーな。とにかく言ってみろ。俺に何が出来るかは分からんがな」
うんざりを凝縮したような声を聞きながら、俺はぐっと拳を握った。アスマさん、いい人だ! いやそうじゃねえ。
「まずはだ、向こうはおまえに気があるんだったよな」
「うん。会ったらじーっと顔見たり笑ってくれた」
なんて気の毒な人だろう。強姦魔なんですよ、この上忍は!
「じゃあまあ、その辺りは間違いねえんだろうな……。で、おまえ、付き合いたいって言ったのかよ」
「うん」
「女は細かいところにキビシイからな。どう告ったか言ってみろ」
「とりあえず抱きしめて」
いきなりかよ! と俺が腹の中でつっこんだのと同時に、おいおいいきなりかよと同じことをアスマさんが言った。
「あなたは普段とても素敵です。乱れるところも見てみたい」
「アホか!」
また同時につっこむ。正気なのか、この上忍。
「でもお互い大人でしょ。イチャパラでもそんな感じだしそれくらい平気だよ」
「エロ本を参考書にするな! ……んで、返事は?」
「無かったから、とりあえずベッドに運んで情熱的に、」
「おいおいおいおい!」
おいおいおいおいーアホかー! 俺は自分の不幸を忘れて彼女に同情した。酷すぎる、この男まともじゃねえ!
「?」
「そりゃマズイだろう、よく訴えられなかったな」
「ええー? 翌朝までイチャイチャしたよ?」
……くっそー、嫌な男だ!
「そういう女で良かったな。つーかよ、それなら順調ってことじゃねえのか?」
「んー、なんかいっつも怒ってるんだよね。笑顔が可愛いのにちっとも見せてくれない」
「遊ばれてると思ってんじゃねーか?」
「体が先行しちゃったからね。だからおまえに相談した」
「なんでそれで『俺』に相談なんだ。まあいいや面倒くせえ」
「それで、プレゼント攻撃しろっておまえが言うから」
「フツーの女ならそれで機嫌直すもんだ」
「毎日がんばったんだけど」
「嫌な予感がするな。何を贈ったんだ」
「フツー」
「だからおまえのフツーはあてにならねえって言ってんだろが」
「んー。美味しいものたくさん食べさせてるよ」
「お、それは正解だな」
「でしょ。それから高級ブランド品もあげた」
「まあ妥当か。花や宝石は試してみたか?」
「そんなの食わないし使わないじゃない」
「おまえじゃねえんだよ、オンナの気持ちを考えろって。まあいい、それでも笑わない、と」
「そー。まだ足りないのかね。金握らせてみるかな」
「……そういうことを考えてるから、警戒されてるんだろうよ」
「なんで? 金、好きでしょおまえだって」
「だーからオンナの気持ちをな!」
「モノやって餌やって。はは。犬より手が掛かるよ。これだけ手間と時間かけてもまだ不満なら、直接握らせるしかないじゃない」
「なんだそりゃー!」
気がつくと俺は立ち上がって叫んでいた。次の瞬間やばいと思ったが、もう仕方が無い。
「あんた、そんなんだからダメなんだ! 女性を何だと思ってるんだ!」
カカシは俺を見て瞬きし、アスマさんはタバコを落とした。
「最低だ、あんた最低だ!」
この数ヶ月の出来事が一気に頭の中に溢れる。なんなの、と首を傾げるカカシの半目のムカツクことと言ったら言葉にならない。この目が気に入らないんだ。威圧するかと思えば非難がましくじろじろと……。
「分かったぞ!」
俺は怒りで震える手で上忍をびしっと指差した。そうだ、そうだったのか!
「そんな態度取ってるから彼女に家を追い出されたんだろう! だから俺ん家に避難してあれこれ味見させてるんだな! くっそう、中忍だと思って利用しやがって! お生憎様だ、俺は何でも食うんだよ!」
アスマさんがゆっくり屈んでタバコを拾っている。そして火がついた方を咥えようとしてまた落とした。カカシは首を傾げたままだ。
「何を怒っているんですか」
相変わらず無表情のカカシがのんびりと言う。大声を出すほどに興奮してきた俺は、カカシの目の前までどかどか歩いて行った。
「あんた、何にも分かってない。ちょっと怒られたくらいで逃げ出しちまって、挙句の果てに金で解決かよ!」
「別に逃げてませ、」
「うるせえ!」
カカシの声を遮り、思い切り叫んだ。いやーあれだ、これはまた面倒だと訳の分からないことを呟いているアスマさんの顔色が白いのが気になるが、ここで止まる俺じゃあない。すみませんアスマさん、言わせて下さい!
「そんな人を小馬鹿にしたようなツラしてんじゃねえよ!」
「生まれつきでーすよ」
「顔に出てるんだよ、分かってもらえないならモノや金じゃない、心でぶつかっていけよ! 全身で表現しなくちゃ分かるものも分からねえんだよ!」
ぶんぶん揺さぶると、心なんていい加減なものですよと鼻で笑って俺を見上げる。ああダメだ、怒りで目の前が真っ白だ。
「つまんない男だな、あんた本当に最低だ! 」
「確かにつまらない男でしょうよ」
アスマさんが必死な感じで両手を上げているが知ったことじゃねえ、俺はカカシを振り回し、最後の仕上げに『教師パンチ』をお見舞いした。俺のなけなしの理性を総動員した、痛いようでいてそうでもない、子供用パンチだ。
「俺の家でぐだぐだしてる暇があったら、さっさと彼女に会いに行けよ! 側にいてやれよ!」
カカシはわざとらしく尻餅をついて頬を擦る。痛い訳ねえだろうがこの上忍め! すっとぼけた顔を見ていると、なんだか分からんが視界がぼやけてきた。
「落ち着け、イルカ」
控えめにアスマさんが言う。ええーなんでイルカ先生が泣くのーとカカシが馬鹿にした声で言う。くやしい、くやしい、がくがくして足が動かない。立ち去ることも出来ずに俺は腕で目を拭った。
「いやまあアレだ、とりあえず泣き止め」
ぐずぐずと洟をすする俺の肩をアスマさんが叩いて慰める。いい人だなあ。俺、なんで泣いてるんだろうなあ。
「イルカ先生に触らないでよ、ハゲ」
「ハゲてねーよ! ああもうだからな、おいカカシ、もう一度確認するぞ」
確認? アスマ先生の顔を見上げる。もう頭の中が滅茶苦茶だった。俺、なんでこんなに悲しいんだろう。
「まず、脈があったんだな、カカシ」
「そうだよ。俺の顔、じーっと見てたもん」
「どこで」
「受付。すんごいにこにこしてたし」
「……で、だ。どうやって口説いたって?」
「家に行ってこう抱きしめて」
なぜかカカシは背後に回って俺を羽交い絞めにした。何をやってるんだ、こいつは。ん? さっき受付がどうとか言ってたか?
「それは抱きしめてねえよ……」
がっかりしたようにアスマさんが言う。俺もそう思う。
「お堅いアナタが犯されるとどうなるのかなーって口説いてベッドに直行」
「カカシ……口説いてねえ、それおまえ口説いてねえよ……」
だんだんアスマさんの頭が下がってきた。具合が悪そうだ。大丈夫だろうか。いやちょっと待て、今俺が注目すべきはそこじゃないぞ?
「朝までがっちりいちゃついて、それ以来同棲中なんだけど」
「……それは強姦とか不法侵入ってもんじゃねえか……俺ぁ、そんな気がするな……」
すっかり俯いてしまったアスマさんを見ながら、羽交い絞めの姿勢のまま俺の血圧も下がってきた。なんだか心当たりが……。
「全然笑ってくれなくて、どうすればまたにこにこするかなって考えて、そう言えば前に食堂で美味そうに食ってたなー、たぶん飯食うのが趣味なんだろうって思って毎日世間で美味いと言われるものを作ってみたんだよねー。アスマに言われてからは、スーパーの安い食材は止めて見た目も凝って、出来るだけ高い食材使ったし。プレゼントって、高いほど喜ばれるんだよね?」
「……」
アスマさんはとうとう声も出なくなり、ひたすらタバコを探して胸ポケットをまさぐっている。俺はと言えば、なにやら冷たい汗が背中に沸いてきた。
「早寝だからたぶん寝るのも趣味なんだろうって思ってセックスはとりあえず控えて、マルヨン美綿の布団もプレゼントしたんだよね。もちろん一番高いやつ。俺が何かやると一々興奮してくれるから、イイ線いってるはずなんだけど」
あくまでも無表情に淡々と、カカシは俺の頭の横で語っている。恐る恐るそちらに目をやると、じっと見返された。
「笑ってくれないよね、イルカ先生。なんで?」
「笑うかボケー!」
遠くなりかけた俺の意識に、アスマさんの怒声がこだました。
「今日は何食うかな……」
オレンジ色の夕日を眺めながら、俺はわびしい夕食を思って口元をほころばせた。数ヶ月に渡る贅沢な飯に未練が無いとは言えない。が、一人の静かな暮らしに変えられるものはない。
衝撃の一件から一週間が経っていた。カカシを説得するのは本当に、本当に大変だった。『あれは正当な同棲だ』と言って譲らないカカシに、アスマさんは声が枯れるまでこんこんと説教し、最終的に『仕切りなおし』という双方の大妥協による決着を見た。本当にアスマさんがいてくれて良かった。
鍵を開けて暗い部屋に足を踏み入れ、ほっと一息吐く。自分の家の寂しい匂いって、意外と一日の疲れを癒してくれるもんだよなあ。そんなせつないことを考えながらカップ麺を探しに台所へ向かおうと居間を横切った。その瞬間、俺はとんでもない異変に気がついた。
「いるんだろ……」
気配は無い。しかし、間違いなくヤツは居る!
「うおらカカシー! 出てこーい!」
「ハイ」
どこからともなくもっさりと現れた男の襟首を捕まえ、居間に置かれた巨大なモノの前に突き出す。
「こりゃあ何だー!」
「イルカ先生、昨日欲しいって言ってたでしょ」
築二十年、何もかもがいい感じで古びている俺の部屋の中、それは異様な輝きを放っていた。『枝走りもブレずにくっきり映る!』(それはそれで問題があるとは思うのだが)が売り文句のプラズマテレビだ。ちなみに、サイズは五十インチを越えていると思われる。
「いりません!」
「大丈夫ですよ、現金一括払いですから」
「いいから返してこーい!」
結局、なんだかんだと理由をつけてこの男は俺の家にやってきていた。口説き直しているつもりなのだろうが、常に方向性がズレているカカシの態度に俺の声も毎日枯れる。テレビを返品した足で舞い戻ってきた上忍は、俺に言われるままに正座をしながらしきりに首を傾げている。
「欲しいって言ってたじゃない」
カップ麺を食い終わり、ビールを飲みながら俺はげふっと溜息を吐く。カカシにも一本やったが、膝の上で弄んでいるばかりで飲もうとはしない。
「分相当って言葉を知らないのか、あんたは! こんな狭い家に置けるかってんだ」
「あっ、そうか」
また何か閃いたらしいカカシがぽんと膝を叩く。イヤな予感に目を逸らす俺。
「じゃあ、大きい家を買ってあげ、」
「いらんつーとろーが!」
「ちゃんとイルカ先生名義にしますから」
「こんの金持ちめえええ! ムカツクんだよムカツクんだよ!」
しかし俺は、以前とは違う意味でカカシを本気で怒鳴れなくなっている。
「でも現金はイヤなんでしょ」
「……言ったでしょう、俺が好きなら、心でなんとかしてみろって」
「だーから、俺にはそんなモンないって」
何度話しても、カカシには通じないものがある。誠意とか真心とか、そういった言葉だ。自分にはそんなものはないと、本気で信じている。じゃあなんで俺と付き合いたいんだと問えば、スキとキライくらいは分かると答える。笑顔がスキだからいつも見ていたい、そんな恥ずかしいことを真顔で言うくせに即物的な行動ばかりを取る。本当に、何をしていいのか分からないのだ。
「……ありますよ、あんたにだって」
「さあてね。んー、やっぱりエッチしましょうよ。俺、上手いですよ、気に入りますよ?」
「やかましいわ!」
「難しいです、イルカ先生。何がアタリなんですか」
お互い半目になり、見つめ合う。カカシは悪びれないと言うよりも、親の言葉が理解出来ない小さな子供のようにぼんやり俺の顔を見て首を傾げた。
「マニュアルは無いんですよ、こういうことには」
正確、迅速、しかも頑丈。以前同期の男が言った言葉がふと思い出された。そして、この男の不名誉なアダナを。そうなんだ、不名誉なアダナなんだ。
「……マシン、か」
俺の呟きにカカシは目を瞬き、そうだね、と言った。
「時々そう言われてるみたいですね、俺」
「怒れよ」
「本当だから」
肩を落としたのは俺の方だ。ああダメだなあ、こういうのに弱いよなあ、俺は。
「イルカ先生」
俺がばりばり頭を掻いていると、カカシはにじにじと寄って来て空になったビールの缶を俺の手から取り上げた。そして自分の分を握らせる。
「イルカ先生は色々過剰だから、一緒にいれば俺も覚えるかもしれません」
「あーいいですよ、そういう感じ。プラズマよりはマシです」
「ありがとうございます?」
全然分かっていない様子でカカシはまたまばたきを繰り返した。こういう子、アカデミーにもたまにやってくるんだよな。良くも悪くも忍としてしか生きていない子供。優秀で正確で、でもそれだけの。そんなことを考えている内に、俺の右手は自然に上がって白っぽい髪をぽんぽんと撫でていた。カカシは大人しくそれを上目で眺め、そして言った。
「分かりました」
「?」
「エッチですね、かしこまり、」
「かしこまるなー!」
「ええー分かりません、なんでですかイルカせんせ、」
「脱がすなーってナニ準備万端になってんだあんた!」
「俺はいつでも戦闘可能な、」
「馬鹿だろあんた馬鹿だろ!」
「おかしいな、イチャパラだとこの辺りで、」
「エロ本を参考にするなと何度言われれば分かるんだー!」
窓から上忍を蹴り落とし、俺は溜息を吐いた。
「ココロはナイですけど、スキですよーイルカ先生!」
たどたどしく叫んでからカカシは帰って行った。ああ近所迷惑だ、そう思いながら少しだけ俺は笑った。自分の言葉の矛盾、それを知らない男に教師魂が刺激されたのかもしれない。肩を竦め、俺はずっと握ったままだった缶を見下ろした。
「……仕方ないなあ、しばらく付き合ってやるか」
開けようとした俺は頭を掻きながら、それを飲まずに冷蔵庫の奥に仕舞った。
プルトップが綺麗なハート型に曲げられた、馬鹿っぽいビールの缶を。
NARUTO TOP