その九十度

「ああ、寒い」
 イルカはこたつに潜り込んでしみじみ言った。
「そうなんですよね」
 対面の男が言う。
「何がです?」
「暖かい部屋に入ったり、ストーブに手をかざした途端に言うんですよ。ああ寒いって」
「ああそうか。あったかくなったのに、わざわざ寒いって。でもついつい言ってしまうんですよねえ」
「寒がりですね、イルカ先生」
「カカシ先生ほどじゃないです。さっきから全然動かないじゃないですか」
「だってイルカ先生が全部やってくれるから」



 息苦しいほどの刺激に満ちた秋は過ぎた。イルカの中に濃厚に降り積った新しい生徒への熱烈な思いは、枯葉が土に帰るように彼の心に深く染み込み根付いた。
 ときおり雪に霞む里の中で、イルカの日々は穏やかだった。そのなだらかな登り坂のような生活の中、イルカとカカシは薄氷を踏むように、注意深く距離を縮めた。
 学校の廊下での告白から始まり、一緒に下校しての初キッス、思春期みたいなお付き合いを進める中にも『添い寝』などという刺激的なイベントもあった。しかし、二人で過ごす時間は概ね受付で交わされてきた会話を居酒屋や自宅に移しただけのようなものだ。お友達から始めましょう、という雰囲気が二人の間には色濃く残る。

 つい先だって、カカシはイルカの部屋を訪れた。突然の訪問だった。すっかり弱り、子供のように無条件な保護を求めるカカシを、イルカは大層甘やかした。口付けすらないまま、ぴったりと寄り添う事を許したり、翌早朝に自宅に帰ると言い張り身支度を整えるカカシを大人しく眺め靴下を履こうとして貧血で倒れたところを再びベッドに引き摺り戻したり、更にその夕方には、本当に帰る、とサンダルを突っかけるカカシを止めもしなかったり。
 そんな甘やかしは、これまでのイルカの人生には存在しなかった。イルカにとって、愛情とは叱り、励まし、急かすものだ。そうする事で自分もまた生きてきた。カカシのように、叱る事も励ます事も過剰であるような、完成された人間に密着した経験はイルカには無かった。その上、遅れた宿題のように申し訳なさそうに提出される、繊細な恋慕になど、見覚えがあるはずも無かった。

 そして、お友達期間は終わりにしたいとイルカが真に迫って思う頃、具合の良い事に寒い季節になっていた。
 飲んだ後には北風が身に染みる。いつものように食事の後、分かれ道でそれじゃ、と手を上げるカカシに、家に来ませんかとイルカは言った。カカシは、ただ嬉しげに、はい、と言って付いて来た。向かう道すがら、イルカは部屋が散かっている事を思い出したが、それはそれ、準備して誘ったのではない、と分かってもらえそうだ、などと貞操を気にする生娘のように安堵もし、そして今現在二人でみかんを剥き、ぼうっとテレビを見ている。

 熱病のような愛情に飲み込まれ、自失寸前まできりきり舞いを演じるのはイルカの癖だ。相手が子供なら、その熱は吐き出すだけ報われるようにイルカは思う。例え何も返らなくとも、確かに残るものがあるのだと信じることが出来る。
 しかし、目の前の男はどうだろうか。

 焦る。

 元々イルカは速攻派だ。じっくりと付き合いを深めるなど、生理的に拒否が出る。出る、はずなのに、カカシには寛容だ。自分でも呆れがくるほどにイルカは寛容で、その癖、心中は四六時中もうなされていた。左右の鎖骨の真ん中辺り、くぼんだ場所に火が灯って、ぎゅ、と引き絞られて熱くなる。

 いてもたってもいられない、なのに。



「そりゃそうでしょう。お客さんはじっとしているもんです」
「お客さん、ですか」
「違うんですか?」
「ううーん……そうでしょうねえー……」
「カカシ先生、眠らないで下さいよ」
「大丈夫ー、起きてまーす」
「そんな事言って、この間は寝ちゃったくせに」
「イルカ先生が甘やかすからですよ」
「嫌ですよ、カカシ先生寝汚いんですから」
「寝ません、寝ません」
「よだれくって寝ますよ、絶対」
「垂らしてましたか」
「垂らしてました」

 放送終了の時間が近づいている。妙にそわそわした気持ちでイルカはみかんの入った籠に手を伸ばし、中身が空だと気付いた。足せば、もう少し留まってくれるだろうか。
「なくなっちゃいましね」
 カカシの方がそう言って笑った。
「二人で食べると加速するから、なくなるのが早いんですよ」
 どちらかが剥き始めると、なんとなくもう一方も手に取ってしまう。タバコと似ているな、とイルカは思いながら立ち上がって台所に向かった。暖かい居間に置くと足が早いから、みかんの入ったダンボールは冷える玄関近くにあった。

 蓋を開けるとダンボールが擦れてぎしっと鳴った。少し驚いて手を引き、イルカは苦笑する。
 焦っているくせに実は少し緊張しているのだ。今夜こそカカシは泊まるのかもしれない。あけびの件からもう三ケ月、と思えばそろそろ良い頃合ではないだろうか。

 自分なら『三回ルール』だよなあ。
 この場合、三回目ってどこだろう。

 とりとめもなく考えながら機械的に籠にみかんを入れて、テレビに見入っているカカシを振り返り、そういえば、自分たちはキス一つ、という間柄だと思い出す。

 バカみたいだな。

 イルカには薄々分かってきたことがある。カカシはどうやら、自分に対し『一緒に過ごす』以上を求めていないのだ。

 登下校を一緒にして、駄菓子屋に寄って、少し家で遊んで、ばいばい。

 仲良い子供達、というイメージがイルカには拭えない。しかし、だからと言ってカカシが成人男性としての欲求を持っていないとは、イルカは考えない、思いもしない。そんなの可笑しい。十八禁小説を持ち歩く人がオナニーもしないとは思わない。
 カカシは確かに、付き合いの延長にセックスがある、という事を知っている。おそらく男同士の事も。そんな話を何度かした。付き合っていた女に妊娠を告げられて焦った事や、中絶したと言われてショックを受けた事、そしてそれらが全て嘘だったと聞かされて思わず相手を殴った事、イルカがそんな話をカカシにしてみた時、彼は、ホント女はメンドウですねと言った。その、メンドウ、という言い方がとても冷たかった。どうでも良い、という音だった。
 その時、これは相当遊んでいる、とイルカは確信した。間違いなく、千切っては捨て、の男だ。そんな男が、『一緒に過ごす』だけで満足するとは決してイルカは思わない。だから、カカシがイルカと寝ないのならば、それはそこまでがカカシの求めるものという事だ。
 しかしもう一つ推論がある。カカシは今まで『千切っては捨て』てきたので、腰を据えて付き合う、ということに慣れていない、という仮説。それならば、イルカを大事にしようと思うあまりに手を出せない、という可能性がある。

 バカみたいだな。

 イルカは耳が熱くなっているのを感じ、台所の蛇口をひねって水を飲んだ。

 大事にするあまりに手を出せない、なんて。
 可笑しい。俺はそんな柄じゃない、生娘でもあるまいし、大事ってなんだよ、俺。
 大体きょうび、処女ごときで手を出せない男もそうはいない。そりゃ一層面倒だけど。やってしまえば同じ事だし。第一自分はいわゆる『未通』ではないし。それくらいカカシも分かっているだろうし。

 戻ろうと踵を返して、足が止まる。

 分かっているんだろうか。

 取り立てて衆目を引かない上に、性処理に使うには旬を過ぎた年齢の自分を気に入ったのならば、どう考えてもカカシは男を(も?)恋愛対象にする質だということだ。そうならば、自分が経験者かどうかくらいは、三ケ月もあれば察するだろう。

 でも、マジでノンケだったらどうしよう……

 それは困る。とても困る。そりゃあ、俺はやり方も知ってるしそれなりにアレなんだが。

 イルカは男色ではない。頭が上がらない女が何人かいる程度には女とも付き合ってきた。一昔前までは性処理に男を使う上司が多かったために、イルカもそれに巻き込まれ、おかげで経験も知識も充分だ。しかし、それだけ、といえばそれだけの事で、自分がノンケの男をリードする、なんて、不可能に思える。
 自分たちの世代は、趣味以外で男をあえて性処理に使うことは少ない。なんといっても最近のくの一達は職業意識が高くてリベラルだから、いわゆる房中術(寝技)修練の一環としてあっけあらかんと寝てくれる者もいる。技に長けてもちろん避妊なんて常識の、面倒も金も掛からない女を好きに抱ける上忍という立場のカカシ、メンドウ、なんて冷たく言うカカシ。

 どっちなんだ、あの人は!?



「イルカ先生?」
 水場の前で、取りとめも無い思考に固まっていたイルカに、カカシが声をかけた。
「ああっ! はいぃ!?」
「どうかしましたか?」
「いえっ、みみみかんにカビがっ」
 どうでも良い事を言ってイルカは反射的に笑う。別にカビたりしていないが話の都合上、一つみかんを水場に置き去りにして、イルカは居間に戻る。
 今夜、『何も無い』としても、カカシの『質』を探るには良い機会だ。そのためには近寄らなければならない。そう、何気なく、何気なく対面ではなく隣に座るのだ。丁度席を立った今がチャンス、ここは自分の家なんだから、こたつのどの位置に座ったって自然だ。ここは何気なく隣に座ることが最初の一歩に違いない。
 イルカは鼻息も荒くこたつの脇に立った。

「みかんですー。あ、こっち座りますね」
「どーぞ」



 その瞬間、イルカの目の前に激しい選択肢が並んだ。

 イルカは、カカシの対面にいたから、残り二辺のどちらかに移動したかった。自然、無難であるテレビの正面を目指す。イルカが言った『こっち』とはその方向だ。そしてカカシはどーぞ、と言った。体をテレビの方向に移動し、狭い一辺の片側にぎゅっと寄ったのだ。
 即ち、イルカの目の前には、当初の目的地以外に、カカシの真横、というとんでもない選択肢が現れたのだ。イルカは当然、みかんの籠をこたつの板に置こうとした腰の痛い姿勢で固まった。

 選択肢一覧
1 「なにやってんですか、もう」と、笑いながら当初の目的地に座る。
2 「それじゃ失礼して」と、カカシの隣にぎゅっと座る。
3 「やっぱりここがいいや」と、元の対面の席に座る。

 問題点
1 1を選択して冗談で済ませるなら速やかに言って座らなければならないが、固まっている間に時間切れした模様である。
2 男二人では並んで座るのはあまりにも狭い。そのままなし崩しにイタしてしまう可能性は高い……高いのか?
3 不自然だ。

 どうすればいいのか分からず、ただ固まっているイルカの手からみかんの籠を取り、カカシは、すっと手を伸ばしてイルカの当初の目的地である座布団を長い指で突付いた。
「こっちでいいんです、こっちで」
 苦笑混じりの声に、イルカははっと顔を上げた。
「イルカ先生、ずっと正座してたでしょ。こうしてオレが寄ったら足を崩せるなと思って」 
「……」

 イルカはなんとも知れない長い息を吐き、その座布団に座った。
「カカシ先生」
 はい、とイルカを見てカカシはぎょっとする。目が据わっている。
「俺を、からかっているでしょう」
「からかっていませーんよ」
「からかってます!」
「ません」
「ああもう!」
 恥ずかしいやらなんとやら。カカシに全てを見抜かれているように思えて、イルカはこたつの天板に、ぺたりと頬をつけた。
「イルカ先生、テレビ、終わっちゃいましたよー」
 ああ、そんな時間なのか。
「眠るなって言っておいて、先に寝るんですか。ずるいですよ」
 カカシの気配が近くなって、イルカは思わず目を開けた。
「あ?」
「また一緒に寝ましょうか?」
 返事を待たず、カカシはイルカの両脇に手を入れ引っ張り上げ、そのまま持ち上げた。
「カ、カカシ先生!?」
「はいはいはい」
 カカシは可笑しな鼻歌を調子外れに歌いながらイルカを運ぶ。イルカは膝を曲げた格好で宙吊りになった。
「イルカ先生、猫みたい」
 まさしく寝ぼけた猫のようにイルカは唖然とベッドに降ろされ、見下ろすカカシは、
「そのまま寝るんですか? 着替えないと寝間が汚れますよ?」
と言い、
「……洗えば済みますから」
とイルカは何も考えずに答えた。
 そうですねえ、とカカシは言い、一旦部屋から出て行った。イルカが抜け出たままの形で上がっていたこたつ布団の中の赤い光が消え、玄関で鍵の閉まる音がし、最後に電気が消えた。

 帰らなかった……

 こちこちに緊張するイルカの前に戻ってくると、カカシはベストと靴下を脱いでから言った。
「どっちかに寄ってもらえませんか」
 ベッドを空けろ、と言われているのだと、言葉は理解できたがすぐに反応は出来なかった。もちろん、そうなるだろうとは思っていたけれど、でも。
 カカシはしばらく待っていたが、ふっと背を向けると横の押入れを開けた。まるで自宅の押入れのように遠慮なく探って何かを引っ張り出すと、ざりざりと音をさせて振り返った。調子外れの鼻歌に『ざりざり』が混じって妙に似合った。

 一人寝るのは寝るのじゃないよ 枕抱えて横に立つ

 都々逸か。微妙に風流ではない感じ。
 どうでも良いことを考えながらイルカはカカシを見上げた。彼は、歌と同じに枕を持って立っていた。
「いいですか?」
 のんびりとカカシは言った。イルカは、壁際に寄ることで答える。イルカの耳の側に、ざりざりと枕が置かれた。
「ソバ殻の枕が一番好きです」
 カカシは言ってベッドに横たわった。いつもより重いぞと、マットレスがぎいぎいと鳴るのでイルカは身を竦めて壁にへばりついた。早く、と願っていた自分が嘘のように消えてしまい、どうしよう、どうしようと、壁紙の凹凸を指でなぞる。
「……狭くてすみません」
「知ってますよ、狭いですねえ」
 じゃ、とカカシはイルカの背にくっ付いた。さわさわと柔い前髪にうなじを撫でられてイルカの心臓は一瞬止まり、次にやたらと熱をもって鼓動した。その、かあっと火照った胸にカカシの両手が沿った。イルカはぎゅっと目を瞑り、同意を示してその手に自分の手の平を重ね、神経を張り詰めさせてカカシの挙動を待った。

「おやすみなさい、イルカ先生」

 カカシは穏やかに言い、あっという間に眠りに落ちた。深い息が服越しに背中を暖め始めてやっと、イルカは緊張を解して脱力した。



「酷ぇ、この男……」






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