すすきが原

 ふわふわと歩いている。
 あるかないかの風が吹いている。
 空をゆく雲は、背後の月に押し出されるように流れている。
 雲の間を白い鳥が、半身を光輝かせて群れ飛んでいる。
 その鳥を追って刺し落ちる薄金の光。
 黒く沈んだ草原の上に、輪郭の曖昧な月光がぽつぽつと灯り
 その一つを目指すように、ふわふわと歩いている。



 息苦しい水分の多い空気、それ以上の草いきれが胸に迫る。
 追っても追っても捕まらない男の背は随分と小さくなった。
「カカシさん!」
 声を限りに呼んだ。ほんのわずか、細いシルエットが止まる。
「どこに行くんですか!」
 問いかけに答えはない。暗部の装束を纏い、しかし裸足のままカカシはまた歩き出した。ふわふわと。


 それが始まったのは一月ほど前のことだった。朝起きると隣の男が足の裏を汚しているのに気付き、本人も不思議がること数日、眠ったふりで迎えた深夜にカカシはよろりとベッドから降りた。そして寝巻きのまま窓から姿を消した。明らかに様子がおかしいにも関わらず、彼の足は速く見失うのはあっという間だった。
 それは何度も繰り返された。一度としてカカシを追いきれたことは無かった。そして、どこへ行ったのか何が目的なのか、目が覚めるとカカシは全く覚えておらず、ただ白い足は土で汚れ、小さな切り傷が散る。
 今夜、後をつけることができたのは偶然だ。任務で深夜の帰宅となった目の前を、彼がふわふわと横切ったのだ。楽しげとも悲しげとも見て取れる彼の顔は、驚きに胸を押さえながらの呼びかけにも答えることはなかった。
 そこから追ってきた。演習場の果ての果て、もう国境が見えるというところまで。


「カカシさん……」
 ふう、と額の汗を拭う。九の月も半ば、しかし気温は酷暑と言っていい。どれほど怪しげに見えようとも上忍の足は早く、思わぬ方向へと急に転回されるとすぐに見失う。それをなんとか見つけては追い、ようやく開けた場所に出た頃には任務で酷使した体は息を上げていた。だが、諦めるつもりはない。
 カカシの裸足の下で潰された小さな草や花が濃厚に匂い立つ。夏草の青い匂いが一面に沸き立つ草原の中、彼が作った新しい匂いを追って進む。
「まずいな……」
 ぬるい風を割って光が落ちる。刺すように灯るように、幾重もの透明な布が翻るようだった。その中をどの光よりも白い髪がくぐっていく。
「止まって、止まって、カカシさん! もう国境です!」
 既に警備の忍は気づいているだろう。カカシの異様ないでたちと様子に、下手に手を出さず観察を続けているというところか。
「カカシさん!」
 大声を出す度に、喉が引き絞られるように痛む。走り詰めの任務で喉が焼けたように熱を持っているのだ。
「行かないで下さい!」
 これで最後とばかりに一際大きく叫んだ。裸足が止まる。肩がゆるく左右に揺れ、おぼつかない様子でカカシは振り返った。
「戻って」
 枯れた声は聞こえたかどうか。手招きを繰り返し、わずかこちらへと来る気配を見せるカカシに必死で笑みを向けようとして気がついた。彼は、額当ても口布も顎の下まで落とした上、左目をぽかりと開けていたのだ。
「赤い……」
 背中の汗が冷たく感じられ、一層の手招きで呼ぶ。カカシは立ちすくみながら迷うように天と地を見比べている。
「こっち、こっちに俺がいるんですよ、カカシさん……」
 呟き、イルカは一つ咳き込んだ。青草の匂いが沁みる。熱く纏わる風が手足を萎えさせる。早く、こっちへ。手を差し伸べて精一杯笑った。
「お帰り、を、言って下さい」
 重い空気がその時、ひゅるりと動いて頬を撫でた。届く予定でなかった弱弱しい声はその風に抱かれ、耳を澄ますように頭を傾げたカカシに届いた。
「カカシさん……」
 ここまでの足取りと同じく、ふわりふわりとカカシは草の上を歩いて戻ってきた。ぬるい風が掻き混ぜる髪がちらちらと月の光を散らしている。まるで月が戻ろうとするカカシを引き止めているようだった。
「イルカ先生」
 磨かれた金属の手甲が眩しいほどに光っている。斜めに背負った長刀の鞘も鈍いきらめきを散らし、初めて見る訳でもない暗部の装束にイルカは少し驚いていた。黒い、ただ黒い人達だと思っていたが、現実には月に照り映える美しい衣装であった。
「お帰り」
 さらさらと、草を鳴らして彼は目の前に立った。乱れた括り髪の尻尾を触り、額の汗を拭うように手のひらを滑らせる。
「はい……。ただいま戻りました……」
「うん」
 幸せで仕方ないようにカカシは体を傾け、イルカの背を抱いた。写輪眼の赤が、目を焼く近さに迫る。
「随分遠くまで来ましたね」
「そうだねえ」
「帰りましょう」
「でもね、イルカ先生」
 困った顔を作ってカカシはイルカの顔を覗きこんだ。その左目が回転しようか止めようか、迷うように揺れている。ああ、これは回るものだったのかと、間近で見る赤にイルカは視線を吸い取られる思いになった。写輪眼の能力はきっと、見るものを惹きつけて離さないことなのだと信じるほどに。
「あっちにまだ、あるんだ」
「何が……ですか」
「大事なもの」
「大事な、もの……」
「あの時探せなかったもの」
 そう言い、カカシはイルカの体から腕を解いた。再び歩き出した彼は、月が地上に落とす曖昧な白い輪を目指していく。ゆるゆると左右に肩を躍らせ、静寂を保って離れて行く背を呆然と見送り、しかしはっと気を取り戻した。赤の呪縛から辛うじて逃れ、がくがくする膝を叱って後を追う。
「カカシさん、帰りましょう。あちらはもう他国です」
「うん、他国だから」
 振り返らずカカシは言う。
「だから?」
「一人で寂しいよ。だから探さないと」
 何を、と聞くのが怖かった。しかし、聞かずに済ますことなどできはしなかった。
「何を探しているんですか」
「骨」
 心のどこかで、やっぱりという声が聞こえた。想像の中でもかなり悪い方の答えに黙り込むと、途端にちりちりと鳴く虫の声が広い草原の静寂を際立たせる。草の波は彼の髪と同様に薄金の光を浴び飛沫を散らし、草原そのものが一つの生き物であるかのように鼓動じみた動きで波打っている。その中をカカシが一人進む。裸足はいく筋もの切り傷を作って細い赤が滲み、青いばかりの中に混じったほんのわずかな生々しい匂いにイルカは窒息の予感を得た。
「待って下さい……」
 真っ直ぐに歩いて行く背中はイルカの知るものよりもずっと頼りない。そこにひどく似合う一太刀の剣を負い、カカシは小さくなっていく。イルカはその場に膝を突いた。
「どうして一人で行くんですか」
 どうして。目の前がゆるみ、ちらちらと光る。どうしていつも、一人で行ってしまうんですか。胸の中で叫んだ。滲む視界は地平が白く霞み、逃げ水のように光る。泣いている場合じゃない、顔を上げてイルカはよろよろと歩き出した。
「カカシさん」
 天空には青白い月、落とす薄い光は眼前を壁のようにさえぎる。まるで、カカシはやらないよ、と言ってでもいるようだった。戻って、と突き出す両手の間、カカシは月の光が海のように打ち寄せる中に腰まで漬かり、きまぐれのように顔だけで振り返った。彼の周りで何かが揺れさざめき、確かに止まっているはずなのにカカシは押し流されているように見えた。
 すすきだった。
 地平線に打ち寄せる波のように白くけぶり、あるいは膨らみあるいは収縮するように見えるものは、穂をかすかな風に揺らせるすすきの原だった。カカシはそのただ中に入り込み、イルカを振り返りながら虫を追うような仕草をした。綿毛が舞っているからだ。カカシが荒らした部分から舞い飛んだ種子は、きらきらと光りながらカカシの周りをいつまでも回って離れようとしない。そんな小さなものにさえ、イルカは嫉妬をした。国境を越えようというカカシに、自分はどうしたって付いて行けはしないのだから。
「それでも……」
 俺もいく、一緒にいく、カカシさん。
 しかし、振り返ったカカシは舞い散る綿毛の中で、右手をゆるりと上げ、顎の下に溜まっていた口布を引き上げた。届くはずの無いその音が、耳元でぱちりと聞こえたような気がした。その瞬間、幕をどさりと降ろしたようにカカシが自分を切り捨てたのだとイルカは知り、心の叫びさえ途切れさせて口を両手で覆った。
 それきりカカシは振り返らなかった。白いすすきの原を真っ直ぐと西へ、真っ直ぐと地平へ、きらめく長刀を背負い手甲を輝かせ、なによりもその髪を燃え立つように照り映えさせて、歩いて行った。

 ひく、とイルカがしゃくりあげた時、指ほどの大きさに遠ざかったカカシがぱたりと彼方で倒れた。葬送の煙のように綿毛が舞い上がり、イルカは泣きながら駆け出した。





「いやーほんとーに覚えてないんですよ」
「俺を捨てて行こうとしたくせに」
「それはなーいよ」
「事実です。カカシさんは確かにあの時俺を捨てました」
「勘違いだって、ねえねえイルカせんせーすきすきー」
「しるか馬鹿」

 イルカの寝巻きを着込み、のんきにベッドに寝そべる男の額に濡らした布をばちっと貼り付け、イルカは台所へと戻った。
 あの時、イルカはてっきり国境警備の者がカカシの進路を阻止したのだと思った。もしかすると致命的な攻撃がなされたのかもしれないと。
 しかし実際は、カカシが勝手に倒れた。イルカが駆けつけた時には、警備の者も困った顔でカカシを囲んでおり、名を呼んで抱き起こすとその体は異常に体温が高かった。慌てて皆でカカシを担いで病院へと連れて行った。医者の見立ては、睡眠不足による疲労、だった。


「本当に覚えてないのかな……」
 新しい氷を割っていると思わず言葉が漏れた。あれほどに熱望していたというのに忘れたと言う。あれほど見事に捨てたというのに好きだなどと言う。手の上に残った小さな氷の欠片をこつりとシンクに落とし、イルカは溶けていくそれを見つめた。
「イルカ先生」
 のれんを片手で避け、カカシが台所へ入ってきた。シンクの端を握ったままのイルカの真後ろに立ちそっと肩に触れる。
「どうしたの」
「なんでもないんです」
 わかっていたことだから。この人は『行ってしまう』人だ。
「ごめんね……。覚えてなくて」
「いいんです」
「でもね、本当に有り得ないから。俺があなたを捨てるなんて、有り得ないから」
 きっとそれは本当なのだ。でも、同じ深さでカカシは別の何かに捕われている。それが、わからないのによくわかってしまう自分は、やはり忍なのだとイルカは思う。
「はい……」
 生返事で顔を上げた時、目の前を何かが横切った。ふわふわと白い、小さな綿毛だった。カカシの体のどこかに付いたままだった綿毛が、古くて狭い台所に開いた間に合わせのような窓から差し込む光の中を、埃に混じって漂っている。
「タンポポ?」
 イルカの視線を追ってそれに気付き、カカシは無邪気に言った。
「すすきですよ」
「ふうん」
 イルカは手を伸ばそうとした。爪の先ほどもない、儚く舞う種子を握り潰そうとした。どこまでもカカシに付き纏う、イルカの知らない過去を消し去ろうとした。
「よっと」
 わざとらしく笑い声を出し、イルカの鼻先で綿毛は動きを止めた。そっと綿毛を摘んだカカシは珍しいものでも見るようにすすきの種を眺め、そして空いた左手でイルカの手首を掴むと台所を出て行く。数歩で辿り着く居間に散らばった座布団を跨ぎ、開けっ放しの窓に近付くと、握った手首を離して今度はしっかりと肩を抱いた。
「ちゃんと芽出しなさいよ」
 小さな種に言い含め、カカシは窓から腕を伸ばす。しゅるっと吹き上がった風に乗って白い指先から白い綿毛は飛び立ち、二人はそれを見送った。
「イルカ先生」
 一方向を見据えるカカシは抱き込む腕に力を込め、イルカは俯いてその腕に頭を摺り寄せて隣のいつもより体温の高い腰を抱き返した。
「一緒だからね」

 月に照らされた昨夜の白い地平と同じきらめきが、イルカの頬に擦り寄った。いっそ摘み取ってしまいたい思いを深く胸の底に押し込み、イルカは間近の男に囁いた。
「もちろんです」

 それは本当のこと。でも、同じ深さでイルカはあのすすきが原を憎んでいる。






NARUTO TOP