幸せな男

 その夜俺がベッドに潜り込むと、イルカはいつものように微かな緊張を伝えてきた。ほんの少しだけ後退ってシーツに余計な皺を作る。俺にとってそれは、物慣れない仕草にも俺を強く意識しているようにも見えて楽しいものだった。が、その夜は少し違った。彼は懐く俺をそっと抱いてしばし慰め、そして言った。
「もう、やめましょうよ」
 意味を分かりたくなくて、俺はへらへら笑って懐き続けた。イルカは溜息で俺の髪を揺らした。
「泣かないで下さいね、あれは卑怯です」
 血が下がって俺は真顔になった。たぶん無表情だったろうと思う。そういう癖だ。
「体の関係が全てじゃないです。でも、俺にとって誰かと恋をするという事はセックスも込みなので」
 恋をする、などという痒みのある言葉をイルカは事務的に発音した。
「今するか、しないなら服着替えて出てって下さい」
 ああ、俺は上でも下でもどっちでもいいです、と彼はまた事務的に言った。それは、俺が決して手を出さないと予想している響きだった。たとえする気だったしても、こんな凍った雰囲気で何か出来るとは思えなかったが。
「イルカ先生」
 俺は懐柔しようと彼の体にしがみついた。指先がぶるぶる震えた。子供の頃、こうなった時の事を思い出してぞっとした。心から脅えている証拠だ。
「ダメです。離れて」
 思いのほか力強く引き剥がされ突き飛ばされして、俺は左足からずるずるとベッドから落ちた。そしてベッド脇に座り込んでイルカを見上げた。
「イルカ先生」
 馬鹿になった気がした。唇も喉も硬直して名前しか呼べなかった。
「ダメです」
 彼は言い、そして場違いな戦闘の気配を醸した。熱心に俺を見つめるイルカの前で俺は項垂れた。また泣きそうになった。あの黄色い夕暮れ、イルカが発したたった一言と沈黙で涙が零れて仰天したので、今回はなんとか堪える。
「理由があるなら、聞いてあげます」
 事務から教師に転職したイルカがきびきびと言う。俺がぐずぐずと黙り、うっかり降りてきた洟をすすると、今度は親になった。
「カカシさん、言わないと分からない」
「だって」
 だって、だと。そういえば読書中、別れ話の最中に女が「だって」と言っているのを読んで大笑いした事がある。もう笑えない。
「聞きますから」
「だって……」
 まだ言うか。哀れっぽく小さくなって、怒りを納めてくれろと媚びを売るつもりなのか。
「だって、なんですか。言って下さい」
 冷静なイルカが憎い。言って解決出来るなら始めから言っているのに。
「言ってくれないなら、帰って下さい」
 イルカの指が俺の顔の前に突き出され、続いて寝室の扉を指した。言ってくれない、なんてそんな酷い言い様を。言えないだけじゃないか。
「……分かりました、好きにすればいいです。あなたはいないものと思います。だから俺には絶対触ってはいけません」
「イルカ先生……」
 彼はベッドに潜って背を向けた。そして枕元のスタンドをぱちりと消した。

 そのまま数時間、俺はなす術もなくベッドの側に座っていた。イルカは眠っていないが、決して俺に反応しなかった。深夜と呼ばれる時間に達している。イルカが眠らないのは腹を立てているからなのか、俺がいるから気が散ってしまうからなのか、そんな事を考えていたが、結局は、彼は俺が何か言うのを待っているのだろうと思った。話し掛けてはいけない、とは彼は言わなかった。
「イルカ先生」
 俺はまたそう言った。何度かそう呼びかけた時、イルカは期待するように緊張した。同じように緊張する背に俺は囁く。
「あなたが好きなんです」
 するとイルカはがっかりしたように脱力した。微かにベッドがきしりと鳴った。
「好きなんです。だから」
 言いたくない言いたくない言いたくない。それよりも失いたくない。俺は数拍喘ぎ、そして言った。
「殺したくないんです。俺と寝ると、みんな死んでしまうんです。あなたを、殺したくないんです」
 突然、俺の中に沢山の優しい顔が浮かんだ。皆、優しく大好きだった人達だ。カカシ、と呼んでくれる声がわっと胸に響いて俺は放心した。そして、半ば硬直した体の中で、自分の唇だけが動いているのが分かった。

 だから、言うのが嫌だったんだ。





 カカシが初めて他人と寝所を共にしたのは十四の終わりだった。相手は随分と年上の上忍で、次代の火影候補と囁かれる実力者だった。上忍待機所で顔を会わず度に目を細めて話し掛けくる男は、当時四代目を失った衝撃で少々子供返りしていたカカシの心に鮮やかに斬り込んで来た。とうに上忍として働いていたカカシにはそれなりのプライドがあったが、それを突き崩す存在に激しく憧れるところもあり、火影候補と目されるその男はそれだけで四代目の代わりに充分カカシを惹きつけたのだった。
 その男はカカシを大切に扱った。家族を知らないカカシのために、兄、父、更には指導者の役すらこなし、それでいて恋人としては対等の立場で向き合う理想的な人物だった。しかし、カカシが彼無しではいられないと自覚する頃、男はあっさり殉死した。恋人となって三月後の事だった。

 次の相手は入ったばかりの暗部で指導役として紹介された年上の女で、印象は最悪だった。カカシはやることなすこと全て叱られ、口やかましいババアだと疎ましくさえ思った。しかし何度か任務をこなし、彼女に諌められた事柄に命を救われているのだと気付くようになってから、カカシの中で彼女の存在が別物になった。彼の性癖とも三つ子の魂とも言える部分が反応し、女の中に存在する、自分を圧倒する何かに惹かれ始めた。カカシの態度の軟化はやがて、暗部を離れた場所での付き合いを生み、喧嘩ばかりしながら二人は歩み寄って気付けば恋人と呼び合うようになっていた。カカシは女の体を初めて知り、年上であってもどこか頼りないそれに夢中になった。彼女に保護され癒されながら心のどこかでこれは守るべきものだと感じる、その気分を気に入った。
 彼女は付き合いだして半年経たずに死んだ。戦闘中の森に紛れ込んだ一般の子供を守って死んだ。くだらない死に方だ、と口さがない者は言ったが、火影は彼女の名を慰霊碑に刻んだ。

 それからカカシはしばらく荒れた。暗部としての鬱積と、次々と奪われた恋に拗ねていた。その荒れは戦いに向けられ、彼の破壊的な任務遂行能力は『写輪眼のカカシ』をビンゴブックに載せるに至った。皮肉にも、それがカカシに写輪眼を恨ませた。友から譲り受けた大切なものであるのは間違いないが、所詮借り物、まがい物だと感じ、それを賞賛され二つ名として語られる事を嫌悪した。嫌悪から逃れるために自分に欠けている創造性を埋めようと、カカシはその頃必死の模索の末にそれまで制御にてこずっていた『千鳥』を完成させている。しかしそれすら写輪眼に頼ったものであり、更には『千鳥』を身に付ける事で己のチャクラ量の限界を知って失望を深くする結果となった。今ではそれらはカカシの中で昇華されて穏やかに凪いだが、十代の終わりのカカシにとっては明らかな挫折であった。
 そんな時代、カカシは続けざまに四人の上忍の女と関係した。上忍の女の数は少ないため、カカシは妬まれ次々に女を変えているという噂が流れた。実際には、関係は必ず女からの接近によって始まっており、どの女も人に誇れる技を持っていたのでカカシは彼女達を尊敬して大事にしていたのだが、失ったものを取り戻そうと、どこに行くにも恋人を連れて見せびらかし、景気良く金を使ったので噂に尾ひれが付いた。そうして数ヶ月付き合ったところで決まったように女は死ぬのだった。本来は特別上忍として働くべき実力の者が、忍の不足から無理やり上忍に押し上げられたのが主因だろう。胸の空洞を広げながらすぐに次の女の誘いにのるカカシの心情を理解する者は少なかった。

 四人が続けて死んだ後、カカシは男の恋人を作った。カカシと同時に中忍試験に合格した懐かしい男で、遠方で草に近い任務をこなして久方ぶりに里に帰り、上忍に昇格したばかりだった。男は昔話のついでの遊びという雰囲気で恋人と言うよりは愛人として振舞ったが、カカシは相変わらず真剣だった。そして、その男もまもなく死んだ。せっかく戻った里を抜けて処分されたのだ。
 女は駄目だ、だから男、しかも自分を大して好いていなかった男。それが死に、カカシは愕然とした。そして自分という人間は、愛した者の運命を捻じ曲げて死に至らしめる存在だと決めてしまった。それから数年、カカシは誰も受け入れず、ただ暗部としての仕事だけに心を注いで過ごした。

 ある昼下がり、カカシは食堂で食事をしていた。遅い時間だったので天ぷらそば定食しか残っていなかった。当時カカシはどちらかと言えば天ぷらが好きだったがその日は少々胃が悪かった。煮物を食べ終わった皿に天ぷらを取り避け、ずるずるとソバをすすっていると、目の前に女が座った。彼女はうどんを単品で食べており、カカシが食事を終えて茶を飲む頃にいきなり言った。好きなものは最後に食べるタイプなんですか、と。いや食べないつもりだけど、と答えると、じゃあもらっていいですかと言う。ああうん、とカカシが口ごもると彼女はさっと皿を奪ってうどんの上に天ぷらをあけ、笑って礼を言った。
 それがきっかけでカカシは彼女を意識するようになった。何もかもが平凡な女だった。中忍で、試験官で、月の半ばを過ぎるといつもうどんを単品で食べているような、安くこき使われている女だった。死にゆく要素が全く匂わない彼女には同じ職場に恋人がいて、とても仲が良いようだった。これなら大丈夫だ、とカカシは思った。カカシは彼女の黄色っぽい髪や薄い茶色の目を遠くから眺めた。いつも走っている忙しそうな様子、大口を開けて笑い、セクハラにセクハラで仕返しするような彼女を、廊下の端から見つめた。
 一年が無事に過ぎた。カカシは、その恋を秘めたまま辞令を受けて上忍師となった。必然的に彼女とは食堂で会う機会が増え、その度天ぷらを貢いだ。彼女はカカシを『天ぷらさん』と呼び、なかなか名前を覚えなかったがそれで良かった。更に半年が過ぎた頃、中庭で泣いている彼女を見かけた。静かに木陰で俯いているように見えた。そんな時は最悪の時だとカカシは知っている。散々迷った挙句に通り縋りを装って声を掛けると、わっと声を上げて泣かれた。話を聞けば恋人が心変わりをしたらしい。それからカカシは彼女を励ましながら相談にのってやり、いつものように天ぷらをうどんに乗せてやる日々が過ぎた。月並みではあったが極めて自然に二人は心を通わせ、カカシは自身の持つ呪詛を忘れた。月を捕まえたような一夜が明け、照れながら二人で登校し、また後で、と手を振ったその夕刻、アカデミーを訪れると廊下に点々と血が飛び散りその先に女が倒れていた。カカシが駆け寄る前に彼女は医療班に運び出され、それっきり戻って来なかった。事情を教えてくれる者もいなかった。





「だからあなたも死ぬんです、俺と寝たら死ぬんです」
 それを最後に俺は黙った。イルカは怖がって離れてしまうだろう。それとも、自分が恋人達を殺したんじゃないかと疑うかもしれない。あるいは、なんと気味の悪い存在だと思うだろうか。
「だから、あなたとは絶対寝ません。寝なけりゃ大丈夫なんです、だから」
 お願いだから、と俺は呟いた。捨てないで、側にいさせて下さい。惨めに訴えた。必死で言いながら、俺は自分の頭の悪さと堪え性のなさに絶望していた。本当にイルカを殺したくないなら、思いを通じるような真似をしなければ良かったのだ。そうすれば、遠くからイルカの幸せを願って生涯を過ごす事が出来た、愛される事は無かったろうが、呆れられ軽蔑される事も無かったはずだ。耐えるべきだった、イルカに近づくアジロギのような者に気付いても、知らない振りをしてせいぜい良い上忍師を演じ続けるべきだった、なぜ、そう出来なかった。
「お願いです、一緒にいたいんです、お願いです」
 同じ言葉を繰り返した。お願いですお願いですお願いです、側にいたいんです。しかしイルカは全く動かない。背中は緊張しているから話は聞いている、それで何も言ってくれないなら本当に終わりだ。
「カカシさん」
 振り返らず、固い気配でイルカは言った。
「今夜は帰って下さい」
 どすん、と重いものが胸の中に落ちた。それで目眩がした。生きていけない、と叫びそうになって全身に鳥肌が立った。そんなにも、この人に依存していた。
「明日、来て下さい。話をしましょう」
 今、死ね、と言って欲しい、そう思いながら俺は立ち上がっていた。よろよろと痺れた足を動かしてゆっくり玄関に向かった。イルカは、こそりとも動かなかった。





 真夜中では怖いような気がした。だから、ちび達の訓練をやった後、夕方からイルカの家の前で待った。待った、と思わないくらいすぐに彼は帰って来た。こんな日にも持ち帰りの仕事をするつもりなのか、彼は分厚い封筒を抱え、鍵を開け、どうぞと言った。俺は震えている指をポケットの中で握った。
「これを見て下さい」
 居間に入るなり、イルカは持っていた封筒を俺に突き付けて台所に行ってしまった。途方に暮れる、という感情を久々に味わいながらそれをこたつの上で逆さにすると、どさっと書類が溢れ出た。
 心臓が止まりそうになった。忍達の顔写真の付いた経歴書だった。俺はこんなにも簡単に死にそうになるのだなあとその書類を見つめていると、イルカはいかにものんきそうな湯気を上げる湯飲みを二つ持って戻って来た。向かいではなく、斜め前方に座ったイルカは、書類を一旦揃えそして順番に俺の前に置いた。

「まずタツミさんですが」
 イルカはとても平静な声だった。俺は怖がって尻で数センチこたつから下がった。
「彼はあなたに接近した時には、この最後の任務を受けてらっしゃいました。優秀な忍でないと完遂出来ませんが、生きて戻る事も出来ないタイプの任務です。これが成されたために、木の葉は壊滅の危機を未然に防げたようです。相当周到な前準備を必要としたでしょうし、通常こういった任務の前には心の整理をつける時間が与えられますから、彼は時間を得てあなたに接近し、思いを果たした上で清々しく殉死なさったのだと思われます」
 何を言い始めたのか分からなかった。俺は口を開けてイルカを見ていた。
「次にカヅラさんです。彼女は数年前から脳に関わる不治の病にかかっておられました。最後まで勤め上げるおつもりで、実践よりも指導的な仕事を増やしておられたようです。子供を庇って亡くなった時には――このカルテをご覧になったらお分かりでしょう――余命数ヶ月というところでした。おそらくこの事故が無ければ任務終了後に入院し、そのまま亡くなられたような状態だったと思われます」
 俺は、懐かしい女の顔を見下ろし、イルカの顔を見上げ、首を傾げた。
「それから続いた四人です。死亡理由は殉死、となっていますがそれは方便です。ほら、死亡理由の欄にわざわざ火影様の印が押してあるでしょう、普通押されません。死亡理由を了承せねばならないような事態であったという事です。一体何が起こったのかは、この四人の最後の定期健康診断の所見から伺えます。ここに『P』と記されています。この診断からまもなく彼女達は亡くなっています。この『P』、あなた、知らないですか、そうですか。これは、妊娠しているという所見です。ここから推測するに、彼女達は処分されたのだと思います。彼女達の経歴は揃って『九尾の一件で家族を失い保護された』となっています。この段階で、彼女達は草として他里から送り込まれたのではないでしょうか。あの混乱時ならそれも可能だったと思います。そして優秀な忍の遺伝子を狙うように指示された。ターゲットがあなたに固定された理由までは分かりませんが、写輪眼にこだわっていた可能性が高いですね。他里にも写輪眼は血継限界だと知られています。あなたのそれが、遺伝しないものだとは思いもしなかったのでしょう。彼女達が妊娠してもぐずぐずと留まっていたのは、あわよくば、あなたごと持って帰れ、とでも命じられたのではないかと思います。あるいは本気で惚れたのか……。しかしそれがために火影様に気付かれ、処分されたのです。そして四人が続けて死んだ事で、どこぞの首謀者は諦めた、という顛末でしょう」
 イルカは一気に、しかし淡々とそう言うと、次の書類を差し出した。
「それで、違う手に出たんですよ。初瀬さんを送り込んだんです。彼は残念ながら、草として働く内に本当に他里に属してしまったようです。木の葉には、戻って来たのではなく潜入したのです。あなたを一緒に抜けさせるために。首謀者はあなたの過去を調査して、男性との付き合いがあった事に目を付けたのでしょう。この経歴書の最後にはっきりと、処分理由と処分者の名が記載されています。それで処分者のイビキさんを問い詰めてみたところ、意外にあっさりと教えてくれました。初瀬さんはあなたがあまりに一途だったので本気になり、全てを火影様に打ち明けようと悩んだそうです。しかし、件の他里に友人を残しており、首謀者の報復を恐れた。それで、潜入目的がバレて失敗した事にして、一人で木の葉を改めて抜けると決めた。覚悟の上だったのでしょう、そういった事情が書いてあるあなた宛の手紙を持っていたそうです。当時、その里と木の葉は表立って争えない複雑な関係にありました。そのため、あなたが恨みを持つと厄介なので、手紙の現物は初瀬さんと共に焼かれて極秘事項になりました。四人の女性達の死因が伏せられたのも、これと同じ理由のようですね。現在は、別の問題でその里とは敵対関係にあるので、あなたが暴れたければ好きなだけ暴れていいそうですよ」
 ああ、それでも一応守秘義務は残っている案件なので、イビキさんには焼肉をおごらないといけません、それはあなたがやって下さいねとイルカは疲れたように言った。俺はよく分からないまま頷いた。
「そして最後のカスミさんですが。……これは、不運だったとしか言いようがありません。死因は刺殺で犯人は元恋人です。経歴書にも書いてある。元恋人の話によると、付き合い始めたはずの新しい女は彼をつまみ食いしただけで、すぐに別の上忍と結婚してしまったそうです。それでカスミさんとよりを戻そうとしたらしいのですが、彼女はあなたに心を移していた。新しい女に続いて平凡なカスミさんまでもが、自分より数段優秀な上忍を選んだのが許せなかったそうです。相手があなたでなくとも上忍であれば、彼はカスミさんを殺したでしょう。アカデミーは子供達の場所ですから、そこで忍にあるまじきくだらない痴情の縺れによる殺人があったとは、公に出来なかったようです。故にあなたにも事情が伝わらなかった。元恋人の男は特別上忍ですが、現在は中忍が片手間に処理するような仕事の専属になっており、飼い殺しの身の上です。それが、忍として一番堪える刑罰だと三代目が判断されたそうです。この話は直接その男に聞いたのですが、三代目の目論見通り、彼はすっかり気力を失いつまらない忍になっていました。おそらくこのまま年を重ねるだけでしょう」

 これで全てです、そう言ってイルカは俺を見つめてきた。俺は、何も言えずにイルカを見返した。
「あなたが恋人達の死に責任を感じる必要はありません。皆、あなたを利用しようとしただけです。自分の死期に後押しされたり、あなたの遺伝子が必要だったりしたので接触しただけです。唯一カスミさんだけは事情が違いますが……。愚かだったのはあなたではなく、恨みを持った男の方なのですよ」
 イルカは眉を寄せて不快そうに言った。とても怒っているように見え、俺はおろおろと両手をこたつの上にさ迷わせた。
「さて、それじゃ、帰ってもらえますか」
 胸の中に稲光が瞬いた。泣き出しそうに見えたらしく、イルカは困ったように笑ってこう言った。
「あのですね、こういう書類、受付業務を経験している者ならば、誰でも手に入れる方法を知っているんです。普通しないんですがね。それに基本的に誰かの許可が必要です。今回俺はそれを省いて持ち出してきたので、明日には騒ぎになります。ですから、今夜の内に三代目に自首しなくちゃならないんです。だから、あなた、ここにいても仕方ありませんよ?」
 イルカは書類を揃えて封筒に戻し、立ち上がった。俺はその後を追った。
「何か言って下さい、カカシさん」
 穏やかに微笑む顔に、俺も一緒に行きます、とやっとの思いで言った。しかしイルカは首を横に振った。じゃあ、俺、ここで待ってます、そう言うと体から力が抜け、俺は小さな廊下の真ん中で座り込んでしまった。イルカは俺の前に膝を付いた。
「知らない方が良かったですか?」
 首を傾げるイルカは、そっと俺の頬を触った。分かりません、と俺は言い、すると彼は鼻の頭にキスをしてくれた。
「待ってて下さい。たぶん謹慎になりますから、帰って来たらゆっくりできます。もちろん、したくなければセックスなんてしなくていいんですよ」
 笑って言い、彼は玄関に向かった。閉まる扉の間から、あなたに何も知らせずに悩ませた火影様を苛めておきますよ、と呟きが聞こえた。



 イルカの謹慎は三日で済んだ。機密事項の漏洩とも言える行為にしては、軽く済んだと思う。俺はついでとばかりに休暇を取ってべったりイルカにくっついていた。それからしばらくしてアカデミーをうろついていると三代目と出会った。長老は非常に気まずそうに口ごもりつつ、謝罪のような言葉をくれた。本当にイルカに苛められたらしい。処分も軽くなるはずだと、若干の嫉妬を含めて小さい背中を見送った。

   里には真冬の空気ばかりが濃く、近いはずの春の気配は隅に押しやられている。そんな外の景色と同様に、俺達の関係は変わっていない。ベッドの中のイルカは、何も無かったようにやんわりと俺を抱き首筋に額を摺り寄せるだけだ。瞬きする度にまつげが滑って皮膚の表面に虫が這うような感触が伝わり、それを恋の証のように思うのが心地よい。それ以上はまだ、怖い。
 それは、俺が全てを整然と考える事が出来ないからなのだろう。あの、大好きだった人達の全てが俺を利用したり思い出作りの一環として扱ったとは思えないし、これからも思わない。イルカは未だ猛烈に怒っているが、あの人達は本当に素晴らしかったのだ。だから、どんなに説明されても、結局は彼らを死に追いやった要素の中に、『俺』を見つけずにはいられない。
 それでも、彼方の空に浮かぶ薄雲のように、認識出来なくても消えていくのが分かる、そんな風に俺の心も変わっていくだろう。イルカと共にある事を許されるのならば。

 眠りながらイルカがしくしくと泣き始めた。あれ以来しばしばこうなる。彼が泣いている様子を見ていると、可愛らしい動物にちょっとした嫌がらせをしているようないじけた嬉しさがこみ上げる。俺に酷い事を言い、辛い事を言わせたと、彼は夢の中で謝って泣く。でも目が覚めると平気な顔をして、無駄に朝立ちしないで下さいと怒ってみせる。現実には一度も謝っていない。
 小さい嗚咽を聞きながら、俺も僅かに泣きそうになる。イルカは俺を泣かせる人なのだ。そして、俺もまたこの人を泣かす者なのだった。俺はうっとりと目を閉じ、このかなしみを見極めるべくイルカの髪に口付けた。

 幾千里を越えてなお得難い人を抱いて眠るこの夜の、なんという幸運よ。






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