会ノ頃

 夕暮れの中、ナルトが振り返るとカカシはぼんやりと草の波を見つめていた。左を向いているので彼の表情は布と額当てに隠されて分からない。ナルトはその時急に、もう蝉が鳴いていないのだと気がついた。
「カカシ先生?」
 黒っぽいカカシの姿も周囲も全てが金色を纏い、輪郭が曖昧だ。濃い緑のはずの草原は色を失った絵のようでありながら息づくようにうねる。ある種の薄ら寒さを感じ、ナルトはわざと大きな声を出した。
「カカシ先生、何してるんだってばよ!」
 僅か、カカシは顔を動かした。目はいつものように眠そうに笑っている。
「あーうん、解散、ね」
 彼はそう言うと三人を追い越した。
「お疲れさまあ」
「……じゃあな」
 サクラとサスケがその背に声をかけるのにゆるゆる手を振り、金の光に押されるようにカカシは受付所に向かって行った。



 翌日も、修練を終えるとカカシは草だらけの空き地を見つめていた。時刻は昨日よりも少し遅く、既に解散を告げられバラバラの方向に歩き始めていた三人の影を、夕日が藍に染めて砂の上に長く引いていた。その中の一つが立ち止まる。
「何だってばよ?」
 呟くナルトの前、カカシは意を決したようにざくざくと草波に分け入った。彼の背後に広がる空は異様に広い。小さく家々が群がる地平の赤に、陽の橙が連なり黄、緑、藍、水色と、天に向かって暗い虹が描かれているからだ。
「どこ行くんだよ……」
 カカシは不意にしゃがみ込んだ。そして、何かに向かって頭を下げ、そして摘み取るような仕草をした。見守るナルトに気付かない距離ではないが、カカシは熱心にそれを何度も繰り返している。今日は、本当に背筋に寒さを感じてナルトは眉を寄せた。
「カ、」
 呼びかけようとしたナルトの袖が引かれた。
「およし、放っておいておあげ」
 見れば老婆が袖口を掴んでいる。里人に警戒する癖のあるナルトは一歩後退るが、彼女はとりわけ邪気もない。
「若い人には珍しいねえ。どこで覚えたものかね」
 彼女はナルトを見て笑った。その目は皺に紛れるように細く、それでほっと力を抜いてナルトも笑い返す。
「なあばあちゃん、アレってなんだ?」
「おまじないさね」
「おまじない?」
 老婆は懐を探ると黄色い飴玉を一つ取り出し、首を傾げるナルトの手に押し付けた。大した子供扱いにあちゃーと苦笑しながらも、ありがとと素直に口に入れると頭を撫でられる。
「エノコログサを摘んでいるんだよ」
「エノコログサ?」
「あんたらにはネコジャラシと言った方が分かるかね」
「それなら知ってる、ふさふさしたヤツだろ」
 ほらこれ、と足元の雑草を指差すナルトに老婆は頷く。
「エノコロというのは子犬のことさ。子犬の尻尾みたいだろう?」
 ふうんそうかも、とナルトは揺れる穂を見下ろす。
「この里だけかは知らんがね、昔は会う頃と書いて『会ノ頃草』とも呼んでいたんだよ」
「会ノ頃?」
 手で額にひさしを作って老婆はカカシを振り仰ぐ。彼は藍を強める影となって、飽きず草原を漂っている。
「おいでおいでしているみたいに揺れるからねえ。会いたいあの人を一緒に呼んで下さいな、そうお願いして摘むんだよ」
 へえ、とナルトは老婆と同じ仕草をした。カカシの姿はゆっくりと二人から遠ざかり、やがて溶けるように消えてしまった。



 カカシのおまじないはそれからも続いた。解散を告げると彼は草を摘みに行く。しゃがみ、頭を下げてからうやうやしく摘み取る。任務や修練はいつも通りであったから、そう差し迫ったものではないのだろう。そう思い、ナルトは一週間がまんした。が、十日を過ぎると駄目で、明日な、とサスケとサクラに告げると元来た道を走り戻ったのだった。
 やはりカカシは草の中にいた。短くなった陽を象徴するようにカカシはすっかり影となり、一個の彫像のように片膝を土に突いていた。
「カカシ先生!」
 ナルトの呼びかけにその置物は、ん? と顔を上げた。
「俺もやる」
 視線を遮るように隣にしゃがみ、その場にあった穂波にナルトはぱんっと勢い良く手を合わせた。
「早く帰ってくるように呼んでくれってばよ!」
 そうして一本を摘み、差し出す。
「誰だか知んないけどさ、二人で呼んだらきっとすぐ帰ってくるって!」
「……そーか。うん、ありがと」
 カカシは目を細めて笑った。そして手の中の束にそれを丁寧に差し込んだ。器用そうな指先は、やはり作り物のような無機質な色に染まっていた。ぎしぎしと音を立てないのが不思議なほどだった。
「そんじゃな、また明日!」
 無駄に大きく言い、ナルトは立ち上がる。
「遅刻すんなよ、カカシ先生!」
 跳ぶように歩幅を広げれば、触れるエノコログサからぴんぴんと種が散る。二呼吸ほど走ってからやはりがまんならずに振り返ると、未だカカシは穂に頭を下げていた。
 夜風はもう冷たい。



 更に三日が過ぎた。珍しく定刻通りにやってきたカカシは、個人任務で里を離れると告げた。
「三人で共同してやらないと仕上がらないからねー」
 のんびりとそう言って渡された自主錬メニューは、珍しく体力系ではなく複雑な呪符の完成だった。うええ、と悲鳴をあげるナルトと横を向いてしまったサスケの間で、サクラの目がキラリと光る。
「大丈夫よカカシ先生。私がちゃんと監督するから!」
 ふっふ、とサクラは含み笑う。
「でもこれ、出来上がったらどうするの? 火遁系に思えるけど、このままじゃ発動しない感じだし」
「それだけ分かれば上等。帰ったらちゃんと見せてやるから待ってなさーいよ」
 カカシはにこにこと三人を見渡し、じゃ、と簡単に別れを告げた。
 ちろちろと小鳥が鳴く、妙に白っぽい朝だった。すっかり、別れ際に振り返る癖がついてしまったナルトがそうした時にはもう、カカシの姿はどこにもなかった。

 そして、呪符が完成して二日を過ぎてもカカシは戻らなかった。



「キツイ」
 思わず漏れた自分の言葉にカカシは唇を歪ませた。何もかもが順調とは程遠い。
 枝から墜落するように直下の土に降り立ってカカシは辺りを見回した。追手は近い。大木に背を預けて息を整え残り少ないチャクラの配分を慎重に検討する。結局くないを握った。
「あと二人」
 一人で良い、トラップに引っかかってくれ、そう念じて耳を澄ませて待つが、術の発動は感じられない。ただじわじわと敵のチャクラが近づいてくる。
「ふん……」
 地を蹴る。同時に頭上に跳び込んで来た一人と視線が絡む。ぎいん、と二つのくないが鈍く悲鳴を上げ、どちらも折れた。カカシの足首を太い指が掴む。
「ち」
 折れたくないを互いの腹に叩き込む。胃液が糸を引く奇妙に長い落下、鈍い音、カカシが先に印を組みきった。ごお、と巻き上がる風に体を任せて舞い上がり、一つ回ってふわりと着地する。
「あと一人」
 落下地点に花のように開いた炎に男が飲まれている。絶命を確認しながらカカシは左の足首に手をやった。
「馬鹿力め」
 手近の枝を折り、解いた脚絆できつく留める。
「あと、一人……」
 懐の巻物を確かめ、カカシは最後のチャクラで印を組む。



「あーあ、大変だったな!」
 顔見知りの中忍フォーマンセル、部隊長とは名ばかりのイワシが頭の後ろで手を組んだ。
「長引いたもんだよ」
 帰還の予定は三週間前だ。簡単に済むはずの豪商の護衛だったが、後継ぎ問題に巻き込まれて依頼内容の訂正に次ぐ訂正の結果、夏の終わりを他里で迎えたのだ。
「ああ正門だ。帰って来たって気持ちになるな!」
 周囲は秋虫が囁き交わす薄い闇、イルカは背中の大荷物を揺すり上げた。正面の里の大門は灯火にぼうっと浮かび上がっている。大きく書かれた『あ』と『ん』の文字が躍るように見えるのは自分の気持ちがはやるためだろうか。と、笑みを深くするイルカの髪束が、つんと引っ張られた。
「おい」
 なんだよ、とイルカが三人を振り返るとその向こうに変わったものが見えた。
「じゃ、俺らはここで解散」
 急ぐように言ってイワシ達は門を潜った。おい、と言いかけるイルカを、報告書は任せとけとツヅミの声が遮り彼らは跳躍して行ってしまった。
「おかえりなさい」
「あなたこそ」
 肩を竦めてイルカは答えた。
「おかえりなさい、カカシさん」
 ひょこひょことカカシは斜めになって近づいてきた。足を痛めているようだ。漂う強い血臭を嗅ぎながらイルカもカカシの方へと戻った。
 彼は珍しく額当てを上げていた。目の下には青く隈が澱み、どうやら疲労のあまりに片目を仕舞い忘れているようだ。瞑った瞼を切り下した傷には、今そうされたように返り血が滲んでいる。
「病院に、行きましょう」
 イルカはそっと言ってカカシの頬に触れた。軽い感触で乾いた返り血が落ちる。
「報告がまだなので」
 穏やかにカカシは笑った。幾つも年を重ねたように、涙袋に皺が刻まれた。
「俺、付き添っててもいいですか。……もうチャクラないんでしょう?」
 イルカはカカシの左に回って彼の腕を自分の肩に乗せようとし、それが出来ない事に苦笑した。
「それは?」
 カカシを異様に見せていた原因がまだ彼の腕の中にあった。
「摘んだんです。帰り道に」
 腕一杯に柔らかそうな緑が揺れている。瑞々しいものもあれば、黄色に熟したものも混じっている。しっかりと草の束を抱いている腕を解くのがなぜかかわいそうに思え、イルカはゆらゆらと揺れる穂を見下ろした。じっくり見る事などない雑草も、こうして集まれば随分と美しいように思えた。
「ネコジャラシですね」
「そうですね」
「あ、」
 嬉しそうに笑うカカシがイルカに抱きついてきた。その拍子に草束がばさりと二人の足の上に落ちた。
「落ちましたよ」
「いいんですよ」
 抱き合う二人の足元で、役目を果たした穂はまだ揺れている。



「馬鹿にしてるわー!」
「おや、ひどい」
 楽しいじゃない、と松葉杖を突いたカカシが笑う。
「だあって!」
「そんなふくれてないでサクラちゃんも食べなよ。すっげー美味いからさ!」
 ナルトが振り回すのは、湯気をたてた焼いもだ。
「……ウスラトンカチ」
 いつもの台詞を呟きつつも、サスケは甘い匂いを立ち上らせる黄色の塊を口に運んでいる。苦手なものを大人しく食べているのは、提供者が恩師であるからに他ならない。
「ほら、でっかいのが焼けたぞ、サクラ」
「そんなの食べたら太っちゃいますー!」
 言いながらもサクラは、アルミホイルに包まれた焼いもが刺さった枝をイルカから受け取った。
「成長期なんだから平気だよ。サクラなんて痩せっぽちなくらいだ」
「もー、イルカ先生!」
 地団駄を踏むサクラの頭をぐりっと掻き混ぜてイルカはカカシに微笑んだ。

 完成した呪符は、戻って来たカカシの手によって発動した。単なる、焚き火だった。しかしそれは、芋を両手一杯抱えたイルカの口寄せ付きだった。

「ああ、良い夕焼けだ。明日は晴れるかな」
 イルカが暮れゆく空を見渡す。
「うん、キレイだってばよ!」
 焚き火を突付きまわしているカカシを見ながらナルトが答える。
「イルカ先生、最後の一個」
 芋の刺さった枝を振るカカシは真っ赤な陽に染まって今にも溶けそうだった。
「それはカカシさんの分です」
「もう食べましたーよ」
「誕生日だから二個食っていいです」
「えー安いよ、それだけ?」
 馬鹿言わない、とイルカが笑い、カカシも笑った。松葉杖に縋るいつになく頼りない姿の彼はしかし、もう彫刻には見えなかった。

 ふうん、と鼻歌のように呟き、ナルトは笑う。






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