深まる秋に卒業生達への郷愁が香る、そんな季節となった。

 秋からの新学期、イルカは木の葉丸を始めとする低年齢のクラスを中心に受持った。ここ何年か、イルカは思春期直前の小生意気な卒業控え組を受け持っていた故に、小さな子供と密着して関わるのは久しぶりの事だ。
 間近に見る純粋であどけない瞳は、むしろ狡猾なまでにイルカの心をかき乱し、過ぎる刺激を与えた。
 教室の移動や野外実習の折に、疑うことを知らない仕草の子供達が膝回りに絡むそんな時、イルカは猛烈な焦燥感を覚えるのだ。
 この子達の何人が自分の年まで生き残れるのか、この子達の何人に生き残る術を正しく教える事が出来るのか。
 賑やかしい、未来という重圧にねっとりと組み付かれてイルカは喘ぐ。
 ナルトと関わったことで、イルカの心は以前よりも柔らかくなってしまった。ナルトの苦痛と共に自分の過去が弔われて喪が明けた、そんな気持ちだった。喪服を脱いだ肌にぴちぴちと跳ねるような幼い命、その芳香の強さにイルカは若干酔っていたのかもしれない。



 イルカは久しぶりに、一人きりではなくアカデミーの門を抜けた。
 連日の残業を見かねたシラナミに強引に仕事を奪われ、まだ陽のある内に職員室を後にした時、報告書を出した帰りのカカシに出くわした。個人的な任務を済ませたのだと言う彼と連れ立って、イルカは家路に着く事となったのだ。
 風は少しだけ湿った匂いを孕み、出来たてのススキの穂を揺らしている。地平線で踏ん張っている夕日に向かい、イルカは新しい生徒の話ばかりを選びながら、いつものようにふらふらと歩くカカシに笑った。

「まだね、手裏剣を上手く持てないんですよ、確かにそういう年なんですけどね、参ります」
 ちっちゃいんですよ、あいつら。手なんて、こんな。
 イルカの頬が赤いのは、夕日の色ばかりではない。喉に引っかかった『愛しい』という熱を吐き出しながら、イルカは熱心に話す。
「うんと小さい子なんてね、手裏剣で指を切るんですよ、泣くんですよ、もうねえ、何を言えばいいのか」
 ポケットの中に詰め込まれているばんそうこうの束を見せて笑う。
「小さい子を受け持つのは初めてじゃないのに、可笑しいです。毎日、へとへとなんですよ、気持ちが全速力っていう感じで」
 カカシの定位置はイルカの左だ。出した目をイルカの側に置いて、カカシは穏やかに笑う。
「想像できないな」
「何がです?」
「俺はそんな風にならないから。なってみたいのかもしれないですね」
 カカシは夕日の尻尾を眺め、そして柔らかくイルカに向かって首を曲げて言った。
「先生、というものはそうあるべきなのかもしれないです」
 はは、とイルカも笑う。
「取り憑かれているようなものですよ、あんまりお勧めはしません」
 斜めに掛けた鞄を触る。毎日その中には、子供達からの益体もないプレゼントが一つ二つと入る。大きなドングリやイルカの似顔絵。
 なぜ子供達が自分に何かを与えたがるのか、イルカには分からない。分からないからいくらでも受け取る。そして大事に取っておくのだ。自室や職員室の机の上には、そうしてやって来たガラクタが楽しそうに箱に収まっている。
「暖かくなる頃には随分としっかりするとは思うんですけど」
 木の葉丸なんかは心配です、とイルカは鼻の上の傷をこりこり掻いた。
「成長したらしたで、寂しくもあるんでしょうねえ」
 カカシの声には、何か予感めいた、という響きがあった。ああ、子供の指導教官を勤めるのはカカシにとって初めての事なのだったと、イルカは、つい、と顔を上げた。
「それも教師の醍醐味の一つで、」
 言いかけたその時、ざ、と強い風が凪いで若いススキがさわさわと鳴った。



 音を立てて昼を夜が侵食していた。太陽は力尽きて地平に食われながら、歓喜の光を投げ放つ。ざわめくのは妙に背の高い淡い色のすすきだけではない。イルカの血液にも急速に夜が流れ込み、その音が鼓膜を直接叩くようだ。
 イルカは黙った。俯き、ほんのりと白く浮き立つようなカカシの爪先を見つめた。足指までがきれいな男をイルカは他に知らない。

「俺もその内、あいつらを思って眠れなくなったりするんでしょうかね」
 カカシの声は温かかった。
「木の葉丸は、幾つでしたっけ」
 ススキの立てる波音のようなざわめきが、夜そのもののようにあたりに漂った。思いもよらない耳の近くで聞こえる、と思えば銀色の髪。それほどに側にいた。カカシはとても注意深くイルカの言葉を聞いていたらしく、傾げた顔が真横にあった。青っぽい影を頬に落としているまつげが、どうしたの、と言うように何度か瞬いて、イルカの鎖骨の間に何かがこみ上げる。
「イルカ先生が木の葉丸を立派にしたら、ナルトもうんと喜ぶでしょうね」
 続きを、と。
 カカシは顔を傾けてイルカを見ている。二人の間に『子供』というクッションを差し出して優しく続きを促している。

「いいえ」
 イルカは立ち止まった。不思議そうに見つめるカカシの肩に、イルカは軽く自分の肩をぶつけた。それで、すみません、と離れるほどにはカカシは他人でなかったらしく、二人は薄く青色に沈んでいく小道の上で、そのままひっそりと佇んだ。

 もう、緩衝材は要らない。
 とても近くに佇んで、イルカはカカシの手のひらに触った。手甲を付けたままの手をくすぐったそうに一度引いたカカシはしかし、次に自分から手のひらを合わせた。今度は裸の手の平だった。
 丁度良い居場所を探して手は互いをこね、やがて、ぴた、と奇跡のように居心地良く触れた。じんわりと微かな汗、皮膚は一体になって艶めいて張り付く。イルカは精一杯の訴えでもってカカシを見つめた。カカシもまた、イルカに引き摺られるように気配を変える。
 ひんやりとした風が彼らの体で分けられて、軽くその足元に散り回る。小さな皮膚から体温を移し合いながら二人はじっと堪えた。

 この、橋のたもとが家路を分ける。

 耳元で、微かに湿ったざわめきを立てる髪に、イルカは静かに額を伏せた。予想通りの水の匂い、川の側に行けば必ず立ち上る草いきれとせせらぎの匂い。しかし、実物の匂いは野のそれとは違い、どこか錆ついていた。
 忍らしい。だから、好きだ。
 イルカは深く息を吸う。自分にも染み付けばいい。同じ匂いになってしまえばいい、同じ体になってしまえばいい。
 とろとろと薄闇が流れ、風の音は夜に変わった。確かに昼間、小娘達のようにさざめいて会話した若いススキは、今は密やかな衣擦れで絡まって揺れる。

「もう、あなたの事を、考えています」

 イルカは髪に埋もれて言った、溜息を吐いた。
「あなただけ」
 カカシの、面布を付けたままの頬がイルカの頬を撫でた。布を通してカカシの頬の冷たさが伝わる。続いて触れる耳はもはや凍り、思わずイルカはそれを追った。押し付けた唇で耳中に突き出した突起を軽く挟むと、カカシは笑うような息で答えた。
「俺もです」
 ざらり、と耳の下に潜った布の感触と、こつこつ当たる鼻がイルカの首筋を喜ばせ、きゅ、と喉を鳴らして彼は握る手に力を入れた。
「俺の家に、来ませんか」
 声は震えたが、イルカは恥ずかしいとは思わなかった。それほどに、と分かって欲しかった。
 ああ、と溜息を漏らしてカカシはイルカの肩に顎を乗せ、
「いいえ」
とカカシは掠れた声で言った。彼の声は最近こうしてよく掠れる。
「また、あした」

 あどけないと言って良い発音が耳の下で聞こえ、次いでするりとイルカの手の中から温かみが剥がれた。痛いほどに寒い風が手の平に吹き込む。
 目で追えばカカシは、相変わらずのふらふらとした足取りで去って行く。
 イルカはカカシを呼び止めはしなかった。何が有った訳でも無かった訳でもない、手のひらに、さみしい、という言葉が残っただけだった。
 だからイルカは、呼び止める代わりに、思い切り振りかぶって手に残ったものを投げつけた。持って帰れ、とカカシの背に投げつけた。

「やっぱりね」
 投げつけた形で手を伸ばしたイルカの耳に、カカシの声が囁いた。
「え?」
 憎らしいほど上忍らしく真横に戻った男を見れば、面布を押し下げ薄い唇を露出させている。
「少しさみしい」

 カカシは言いながら、軽く首を伸ばした。非常識な至近距離にきちんと目を瞑ったカカシの顔があり、イルカはそれに見とれた。
 ああ、なんてきれいな人だろう。
 そう思った時にはイルカの唇にカカシのそれが押し付けられていた。カカシはポケットの手も出さず舌も出さずに唇だけでそっと触れ、しかし、触れるだけにしては随分と未練がましい時間、そこにいた。

 ふ、と唇の上の未練が去って「え」ともう一度イルカが発声する頃には、カカシは手を上げながら家路へ続く小道を辿っていた。
 イルカはその場にただただ立って、カカシの姿が小道の奥に消えてしまうまで、自分がその背に刺した『さみしい』を眺めた。彼は、本当にイルカの分まで持って帰ってしまった。

 次第次第にわんわんと、音虫達が足元で相手を求める声を上げ始める。
 自分の心臓の中から沸き上がるようにも思い、イルカはその愛歌をじいっと聴いた。

 そんなイルカを居ないものと見なした虫達は、夜を寿ぎいつまでも歌い続けていた。






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