あけび

 外は良い天気なので、イルカは弁当を持って表に出た。食券が無くなったからだ。食券の綴りを購入しようにもまとまった金が無い。平たく言えば給料日前で懐が寂しいのだ。しかし、弁当を作る作業はそれなりに楽しいものでもあるし、こうして古木の下で取る昼食は新鮮だ。
 本当なら暖かい日光を浴びながら幸せなひと時を過ごすはずだったイルカは、憂鬱に表情を曇らせ、もそもそと飯粒を口に運んでいた。

 彼を悩ませているのは一人の男だった。すこぶる上等な忍であり、大事に育てた教え子を引き継いで立派に成長させてくれている男、はたけカカシ。
 イルカはカカシを心から尊敬して同時に親しく思っていた。上官であることを嵩に着ず、いつものんびりと余裕のある様子はイルカのペースに合う。だらしないところもあるという噂だが、それを補う何かがカカシにはあった。
 イルカとカカシには個人的な付き合いは無い。受付の机を挟んで報告書を取り交わす、それくらいのものだ。お疲れ様でしたと声を掛ければ、一つだけ出した顔のパーツを細くして彼は笑う。本当は、下半分を覆った覆面で表情は分からない。しかし、今日も残業ですか、と細くなる目は、確かに笑っているのだとイルカは思っている。

 そんな僅かな時間を待ち望むようになったのは何時からだろう。気が付けばカカシのシフトを把握し、任務から戻る日にはまだかまだかと彼が見えるはずもない高い窓に目がさ迷うようになった。始めはそんな自分の気持ちがさっぱり分からなかった。曖昧な自覚が始まると消去法で数えた。彼は上忍だし男だし自分は凡庸だし。そしてとうとう、女だったら良かったのにな、と思った時に確信となった。
 実際、男女ならば上忍と中忍のカップルは多々存在した。むしろ、上忍同士よりも数は多い。長く受付という人の流れに身を置いていると、どうやら上忍同士というものは性別を越えた人間同士の関係になりがちなのだ、とイルカは気が付くようになった。常に死に瀕した戦場に出る身、互いに尊敬もすれば実力に嫉妬もする、そんな間柄では恋よりも友情が発展するらしい。
 だから自分は丁度良い。もしも女であったのならば、丁度程良い場所にいる。

「でも現実じゃあ、一番嫌な距離だよなあ」

 呟いて、ぐさりと南瓜の煮つけに箸を刺す。お行儀が悪い、と言う母の叱責が聞こえてゴメンナサイと唱える。
 今、子供達を鍛えねばならないカカシにとって、甘えの種になりがちなイルカは舌打ちの対象かもしれない。そして、懸想するように元教え子達から抜け出せない自分にとって、カカシは愛娘の亭主のようなものだ。実際、カカシの腰周りにまとわりつくナルトの姿はある種の落胆でイルカの心を翳らし、誰にもなつかないサスケや、サスケだけを見ているサクラは変わらないものの象徴として輝いた。そういう自分の感覚と同じに、きっとカカシにも思うところがあるだろう。

 同じ、男としてのプライド、か。

 それも、カカシには疎ましく、イルカばかりが焦れ悩むような種類の。
 紅などに言えば、くないの一本でも刺してもらえそうだ、しかし、イルカは思わずにはいられない。自分が女であったなら、母性本能、という免罪符で何もかもを綺麗に片付けてしまえる。
 そして、そういう女は大概の男の心に好ましく映るものだと、イルカ自身がよく知っていた。カカシが上忍で、自分が中忍で、光明があるとすればそれが男女であればこそ。
「スズリさん、元気かなあ」
 イルカは、ほっこりと南瓜を口に含んで、なつかしい名前を想起した。
 今の状況と、スズリの場合と、一体どちらが不幸だろうか。



 イルカには、上忍の女にまつわる苦い思い出がある。親しいくの一から相談を持ちかけられた時の話だ。彼女とイルカは下忍時代の担当教官が同じで、恩師を通じて知り合った。年はニつしか変わらないが、力の差はあまりにも遠かった。しかし、何かにつけて親しく接してくれた彼女は、姉のようにも思われた。
 ある時誘われ、二人で安酒場に連れ立った。彼女がそこが良いと言ったのだ。自分の懐具合を心配し、かつ男の自分が奢られるのは気持ちが良くないだろうと、彼女はその酒場を選んだ。イルカは彼女の、くの一らしい気遣いがありがたく、同時に申し訳なかった。だから相談があるのだと言う彼女に、精一杯答えようと拳に力を入れた。

 安っぽい装飾とざわつく客が詰まった店内で、彼女は憂いを落とした顔を見せた。どういう訳だか彼女はその場から少しも浮いてはいなかった。くの一の中でも特別美しいと評判だったスズリは、その凛とした気性でもって、どんな場所にでも馴染んでしまうようだった。本当の美しさとは、このようなものなのだなとイルカは思ったものだ。
 店中の男が彼女を盗み見、視線を振り払うように彼女が頭を振れば、広がる髪からえも知れぬ良い香りが立ち揺らめいた。
 低く落ち着いた声でスズリが語った話は単純で、いわゆる恋の悩みだった。どうやら相手は中忍であるらしく、口説くに口説けない、というのが悩みの主題だった。
 あなたに求められて断る男なんていませんよ、とイルカは無邪気に言った。ホント? と彼女は笑い、するりとイルカの手を握ると、じゃあ、もし、あなたならどう答えるの、と慌てる目を見詰めて言った。あなたが好きなの、と。
 イルカが照れ笑いで、いやいや、そんな、俺なんかもったいない、あはは、もちろん俺じゃないんですけどね、と呂律も怪しく答えると、彼女はほらね、と肩を竦めた。そうやって茶化されるのが怖いのよ、上忍だからって人としての内容まで上とは限らないのにね、と微笑んだ。

 後にイルカは、彼女が本当に自分を好きだったのだと人づてに聞いた。真剣な思いを笑われて、どれだけ彼女が傷ついたことだろうと、イルカはとてもとても後悔した。しかし彼女はその後唯一無二の伴侶を見つけ、子供が出来た事をきっかけに引退して今は内助の功でもって里に貢献しているのだとも聞き、ほんの少し安堵もした。そんな苦い話である。



 今の自分を思うと、彼女と似た状況にいるのかもしれないと思う。自分は、階級とは無関係に無難な人物に間違いない。しかし、女でさえあれば、カカシに思いを打ち明け、ふられるにせよ遊ばれるにせよなんらかの結果を残せるだろうと思う。
 同性という壁は、階級の壁とは違う形になんと高くて厚いのか。思いを伝えれば、今のささやか過ぎるほどの小さな交流は簡単に吹き飛び、嘲りの視線に取って変わるかもしれないのだ。嫉妬など出来ないほどの高みにいる彼への尊敬の思いまでもが否定されて霧散するならば、それはカカシの中で自分が死ぬ事と同意だ。
 イルカは震える。
 彼女が、冗談めかして自分の気持ちを確かめた訳が、今なら良く分かる。あの時自分がその思いを嬉しいと言ったならば、彼女はきっと打ち明けてくれた。俺なんか、と聞いた瞬間に、彼女は諦めたのだ。そこにある、高く厚い壁を発見して。



 弁当箱の隅に散った米粒を集めながら、イルカは溜息を吐いた。
 これからはなるたけ、カカシとの個人的な接触は避けよう。挨拶を交わし、少しばかり元生徒達の様子を聞く。それでいいじゃないか。きっと彼は笑ってくれる。自分も笑っていよう。寂しいけれどそれでいい。

 ああ。寂しいなあ。

 イルカは青い青い空を見た。どう足掻いても寂しい、そんな恋。俺、ホントに、と最後に残ったちくわの磯辺上げを摘む。

「どうしよう、俺、カカシ先生が本当に好きなんだ」

 さわ、と古木が鳴った。風がイルカの括った髪を舐めて、弁当箱を包んでいた風呂敷がひらひらと舞った。あ、飛ぶ、と、膝でいざって風呂敷を押さえたイルカの前に突然、ニ本の足が音も無く降り立った。
 イルカが呆然と見上げる前にその人物の方がひょいと屈んだ。目の前に顔が見え、ほろり、と箸からちくわが落ちる。
 おっと、と両手を揃えてカカシはちくわを受け止めた。面布をずらし、ぽい、と口に入れる。もぐもぐと咀嚼したカカシは目を細めて言った。
「美味しいです」
 イルカはぱくぱくと口を開け閉めし、お留守になった手からは弁当箱が落ちる。再び、おっと、と受け止め中を見たカカシは、空ですか、と惜しそうに言った。
「いっ、いっ、いっ」
 言葉にならないイルカを、カカシは腿の上で頬杖を突いて眺めている。
「いっ、いつからぁっ、いつからぁいたですかぁっ!?」
「面白いですね、アナタ。今さっきですよ」
幅がある、今さっき、というのはあまりにも幅が、とイルカは両手をばたばたと羽ばたかせた。飛べるんですか? とカカシは首を傾げて面布を上げ、
「ごちそうさま」
と、ポケットに手を突っ込んだいつもの姿で、片足でくるりと体を回して背を向けた。ゆらゆら歩いていく後姿をイルカは唖然と見送った。
 聞こえなかった……?
 吐き出そうとした息は
「イルカ先生、俺が好きなんですか?」
と、顔だけで振り返ったカカシの言葉で止まった。

「はああっ!」
 おかしな声を出し、イルカは硬直して古木に退った。
「そう、聞こえたんですが」
「あうっ、あうっ、あうっ!」
「面白いですね、アナタ」
「ああああああ、はいっ、すっ、好きですっ」
 もう、これでいくしかない。イルカは覚悟を決めた。
 聞いたカカシは溜息のように「ああ」と呟いたが、その後に続く恐ろしい言葉を遮るためにイルカはやたらと大きな声で言った。
「あのっ、俺っ、はたけ上忍の事、とてもっ尊敬してますっ」
「……はあ」
「あのっ、俺じゃ、上忍選抜で死んじまうって言われてっ」
「うん? そうそう死にゃせんでしょ」
「いえっ、でもっ、あの、こう、手の届かないものって憧れる、じゃないですか、はたけ上忍はそれをお持ちで、教師としても上等でそれでいて気さくだし、えーと」
「アナタには及ばないけどね」
 少し落ち着いたイルカは、首だけで振り返るカカシを見つめていつもの笑顔を見せた。上手な嘘とは、多少の真実が混ざったものを言う。イルカは無意識の内にそれをした。
「俺、はたけ上忍みたいになりたいです。そういう忍になれればいいなと思っているんです」
「ふーん」
 カカシは眠そうに目を細めた。笑う時と確かに違う、とイルカは思う。
「アナタは良い先生で良い忍ですよ」
 彼はそう言い、今度は笑んだ。そして片手を上げると、それじゃ、と呟き、ゆらゆらと歩いて去った。



 思った以上に男前。綺麗な鼻と唇。

 午後、受付に座ったイルカは、ぼんやりとの昼休みの出来事を思い出していた。
 カカシは、弁当のおかずというより部品と言った方がいいような、無骨なちくわの磯部揚げを食べて美味いと言ってくれた。きっとカカシは料理なんかちっとも出来ないんだろう、彼にはそれが似合うとイルカは思う。そして自分を良い先生だと、なにより良い忍だと言ってくれた。嬉しかった。いつになくどこかぶっきらぼうだったことが気になるが、なんとか誤魔化すことも出来たみたいだし。
 よかった。きっとこれでこれまで通りに彼の帰りを迎えることが出来る。
 守りたい大切なもの、それを思ってイルカは微笑んだ。苦みが混じる笑みであることに自覚はあったが。





 そろそろかな。

 職員室、自分のデスクに座って弁当を食べながらイルカは思った。雨が降っているから、あの古木には行けない。
 村の警備、と七班の依頼書にはあった。その村の近くの森に最近野犬の群れが住み着き、家畜が襲われ始めた。終には村人に怪我人が出るに及んで、村の警備と野犬を始末するという依頼がやってきた。

 雨が降っているのだし、予定通りに明日か。

 給料はもらったが、あれ以来毎日イルカはちくわの磯部揚げ入り弁当を作っていた。あの木の下でちくわを食べれば、カカシがふっと現れるような気がする。願掛けのようだな、と自分でも可笑しかった。

 命を落とすようなことはないだろうに、一体何を願っているんだろう。

 空になった弁当箱を置いてイルカはデスクワークに戻った。ちらちらと思考に銀色の髪が混ざるのに閉口しながらテストの採点を終えればもう受付所に座る時間、あたふたと走って受付に向かった。
 飛び込んだ受付は閑散としていた。部屋の中にいるのは、ソファで報告書を書いているらしい男が一人と、受付に座って退屈している同僚のシラナミだけだった。ほっと息を吐き、シラナミに片手を上げながら隣に座る。
「悪い、遅れた」
「構わんさ。見ての通りの閑古鳥だ」
「雨のせいだろうな。中止になった任務もあるだろうし」
「たまには暇なのもいいさ。秋雨も風流で結構だ」
「風流はいいけど、洗濯もんが乾かないのは困るんだよなあ」
「イルカは相変わらず所帯くせぇな」
 苦笑するシラナミが突き出す帰還予定一覧には、野外作業が多かった。今から受付所は忙しくなるだろう。Dランクあたりならば、雨のために切り上げになる任務もあるからだ。

 明日には止むといいな。

 水滴の滴る窓を見上げた時、大きな声が聞こえた。
 ナルトだ。
 意気揚揚として何かを叫び、サクラにでもたしなめられたのか急に声が小さくなる。もう帰りなさいと、子供達を帰す声が聞こえた。
 ああ、皆無事だったんだなと悟る。当たり前だがそれでも嬉しい。イルカはどきどきと心臓を急がせて待った。目の前の扉が開くのを待った。
 カカシは報告書を歩きながら書く。揺れた字でにょろにょろと書きながら廊下を歩いているところを見かけた事があった。イルカは、彼が報告書の空欄を埋める様子を想像した。覗き込むナルトの頭に、ちょっとやめなさいよ、と手を置いただろうか。それよりも、今日もまた、自分の前に報告書を持ってきてくれるだろうか。そう、こんな風に。

 あれ?

 不意に目の前に、報告書が差し出された。目を上げると、若い上忍がいた。よく見る顔だ。何度も報告書を受け取った記憶があった。さっきまで横のソファで報告書を書いていた、と思い出す。
 イルカは確かに落胆し、しかし、
「お疲れ様でした!」
と精一杯の笑顔で言った。
 彼は一月の長い任務をようやく終えた。Aランクだったから、相当な疲労が積もっているだろう。彼を迎える事でカカシが隣の同僚に報告書を出すなどと考えてはいけない。
 イルカは労いの言葉を掛け、男も照れたように笑っていやいやと手を振った、その時、男の腕の向こうで扉が開いた。

 イルカの待っていた、その足音が聞こえた。僅か、彼は止まり、逡巡するように数歩進み、そして続いて迷わずイルカの前に向かった。目の前にいる男の後ろに並んだのだ。
「はたけ上忍? こちらにどうぞ」
 隣のシラナミが声を掛けたが、
「いーのいーの」
とカカシの声がする。
 それだけでイルカの心臓は止まりかけ、手に持った報告書に落とした視線は何度も同じ行間を彷徨った。

 どうして並ぶんだろう。

 やっとの思いで発見した小さな不備を指摘し、目の前で直している男の背後をちら、と窺う。
「お疲れでしょう、どうぞこちらへ」
とまた、隣から声が掛かるが、カカシは手首から先だけをはたはたと降って
「いーのいーの」
と繰り返す。
 シラナミがちらりとイルカを見、イルカも彼を見返した。
 何かやったのか、と半ば同情的な視線だ。世間は忍としてのカカシを相当な色眼鏡で見ているようで、のんきな全身凶器(狂気、かもしれない)と呼ぶ者さえいる。シラナミは受付でカカシの人柄に慣れたとはいえ、そんな噂が耳に残っているのだろう。

 でも俺は知っている。カカシ先生は、ちくわの磯部揚げを食べて美味しいと言ってくれる人なんだ。なんだかんだあってもナルトが懐き、サスケが名を呼び捨てる事を許し、サクラの明後日な暴走に目を零す、そんな優しい人だ。

 どうして皆、と思った時、イルカの目の前の上忍が、これでいいかな、と再度紙を差し出した。
「はい、結構ですよ。ゆっくり休んで下さいね」
 ぽん、と印を押しつつ、イルカは誠意を込めて言った。
  「イルカさんも残業はほどほどにして下さい」
「ははは、お気遣いありがとうございます」
 笑い返した男は、どこか名残惜しそうな風情でゆっくりと腰を伸ばし、出て行くためにイルカに背を向けた。
 と。

 ばちっ

 報告書を処理済み箱に入れようと手を伸ばしたイルカは、びっくりして固まった。
 静電気?
 そう思ったが、そんな季節にはまだ早い。見上げた先には、先ほどの若い上忍と向き合っているカカシがいた。
 二人は視線を合わせて固まっている。声を掛ける隙も見当たらず、イルカもここで動く事はまかりならぬと、シラナミと顔を見合わせるだけに留めて見守った。
 しばしの沈黙。

「……お疲れさま、アジロギさん」
「……お疲れ様でした、カカシさん」
 到底そんな穏やかな会話とは思えない低い声を掛け合って後、二人は同時に視線を断ち切った。どうやら威嚇し合っていたらしい。因縁でもあるのかな、とシラナミが囁くのが聞こえたが、
「イルカ先生ー、報告書、読んで下さいよー」
一転して間延びした声にイルカは我に返った。
「あ。お疲れ様でした、はたけ上忍……」
 自然に顔がほころんだ。さっきの男に向けた笑顔との違いが自分でもはっきり分かって恥ずかしくなる程だった。カカシの目はいつも通りに糸になっている。
「ただいまです」
「お帰りなさい」
 カカシは想像通りのにょろにょろ文書をのっそりと出し、改めて両手をポケットに突っ込んだ。
「相変わらずですねえ、もっと綺麗に書かないと。俺は良くても他の人が読めませんよ」
 一週間で変わるものなど無く、しかし、変わらないカカシがイルカには嬉しかった。
「そうですねえ、いけませんねえ」
 高等忍文字にも負けていない難解な文書、それは手の中にあるカカシの人生の一部だ。読み解いて不足を埋めてもらって、そして。
「……確かに受け取りました。お疲れ様でした」
「はい、よろしく」
 思えばなんて短い時間だろう。例え全てを書き直させたとしても、数十分とかからない。カカシはあっさりと背を向け、扉に向かった。手の中の報告書を見つめ、イルカはふうっと息を吐く。
「あ、そうそう」
 カカシはひょい、と片足で回ってイルカの前に戻って来た。
「そうそう、だって。なんか馬鹿だーね、ははは」
「はたけ上忍?」
「お土産です」
 ウエストポーチを探ってカカシは言った。
「手、出して下さい、イルカ先生」
「はい?」
 素直に出した手の上に、紫色の果実が一つ乗った。カカシの意外と細い指がするりとポケットに戻る様が鮮やかにイルカの目に映った。
「ちくわのお礼です」
 イルカはその素朴な木の実に微笑んだ。
「あけび、ですね」
「はい。甘いですよー」
「どうしたんですか、コレ」
「イルカ先生に似てると思って」
 イルカはカカシを見上げて曖昧に微笑んだ。似ているかな?
「甘くって柔らかいでしょ。優しい感じで。でも種が沢山あって、食べにくいの」
 こんなに派手じゃないけどね、とカカシは声に笑いを滲ませた。
「わざわざありがとうございます」
「イエイエ、それじゃ」
 カカシは来た時と同じように、ゆらゆらと受付を出て行った。



「あけび、かあ」
 シラナミが覗き込む。イルカは手に乗せたままのあけびをころころと転がした。まだ開いてはおらず、しかし色艶からは食べ頃か。ひんやりしているその感触を楽しみながら、イルカはあけびを眺めた。カカシくれた、それだけでどんなものよりも美味しそうに見えた。
「風流というか、なんというか。はたけ上忍ってそういう人かあ」
 納得がいった、という様に、彼はうんうんと頷いている。カカシの人となりを分かってもらえたような気がして、イルカもうんうんと頷く。
「面白い人だろ、弁当のちくわを一つあげたんだけど、そのお返し、なんて律儀だよな」
「はー。それでさっきの静電気かー。なあるほどねえ、あさせ上忍、確かにご執心だよなあ。おおー、この因縁は根深いな!」
「さっきから何言ってんだ? あさせ上忍がなんだって?」
「……」
「おい、シラナミ?」
「おまえね、鈍いのはいいんだけど、あけびの花言葉くらい知らんの?」
「いい年した男が花言葉なんか普通知らねぇ」
 呆れながらも、少し気になった。あけびの花は意外と綺麗なものなのだ。母がその花を玄関に飾り、父と二人でその枝で籠を編んだ記憶が浮かび上がった。
「まあいいや、花言葉、あけびにもあるのかー。ふうん。でもコレ、実だし」
 あけびを裏返し摘み上げる。強く触れると痕が残りそうな柔い紫。
「見て分かれば花も実も一緒だろ。おまえも忍たるもの、この程度のわびさびは持ち合わせないといかんぞ!」
「ワビサビと忍はあんまり関係ないだろ。おまえが少女趣味なだけだって。しかもなんか大雑把で胡散臭いしな!」
「言ってろ、ビビらせてやる」
 シラナミは立ち上がり、受付を出て行き、すぐに戻って来た。
「ほれ、読め」
 一冊の本がイルカの鼻先に突き出される。表紙には、「万葉の花言葉」、とある。
「なんでおまえがこんな本……」
「教養の授業で使ったんだよ。職員室に置いてあるんだ。忍たるもの、」
「分かった分かった、やっぱりおまえの個人的な趣味だろーが」

 教養の授業内容は、各教師に一任されている。イルカは大概、全員でかくれんぼ大会を開くことにしていた。これは基礎鍛錬の成果が確認できて、我ながらなかなか有意義だと思っているのだ。教師によっては裁縫や料理などの家事を教えることもある。極端に言えば、教師が好きにしていい息抜きの時間だが、花言葉を教えるなど聞いたこともない。
「ちょっと良い話、なーんて混ぜたりしてさ、結構好評なんだぜ? 後でワレモコウを贈ってくれた生徒もいたっけ」
 あけびを机にそっと置いて、イルカはぱらぱらとページをめくった。
「ワレモコウ……あ、あった。感謝、か。変化って意味もあるんだな」
「それはいいから、早くあけびを見てみろって」
 焦れたようにシラナミがイルカの肩を両手で掴んで後ろから急かした。
「はいはい、ええと、」
 あけび、なのだから、本の最初の数ページを繰れば見つかった。
「な?」
 にやにやとイルカの顔を覗き込み、ばんばんと肩を叩いてシラナミは言った。
「ご愁傷様。まあ、がんばってくれや」
 イルカは固まったまま動かない。
「おい、そんなショックだったか? おい、イルカ?」
「……俺、ちょっと……」
「うんうん、男なら便所で泣け!」
「うん……」
 ぼんやりと立ち上がってイルカは受付を出た。



 廊下の向こうにカカシの背中がまだ見えた。どうやら誰かと話をしていたようだ。丁度イルカが足を踏み出した時に、再びカカシは歩き出した。
「はたけ上忍……」
 イルカは知らぬ間に駆け足になった。
「はた……カカシ先生!」
 忍の走りならほんの数歩、声を認めたカカシも寄ってきたのであっという間に追いついた。
「はい?」
「カカシ先生……」
「なんかまだ、間違ってました?」

 甘くって柔らかいでしょ。優しい感じで。でも種が沢山あって、食べにくいの
 カカシの声が頭で回る。
 花言葉なんて。

「カカシ先生」
「はい、なんでしょう」

 顔を合わせた途端、勘ぐりすぎだと、自分の心が大声を出した。
 なんでもありません、そう言ってしまおうと刹那の時間に百回も考えた。カカシの拳を認める事がなければきっとそうしていたに違いない。

 俯いた視線の先にカカシの握った手があった。ポケットから出ている手はわりと珍しい。だからさっきもじっと見つめたその手は今、少し赤く見える。思い切り握っているのだ。手甲を外した白い手だから、とても分かり易い。どうして、と思ったらイルカは言っていた。
「あけびの花言葉、いいですよね」
 すっ、とカカシの気配が乏しくなる。緊張した時のカカシの癖だ。
「才能」
 イルカの言葉に、カカシから何かの気が抜けた、そんな気配が伝わり、ぽそりとイルカは続ける。
「発見、というのもあるんです」
「それは知りませんでした」
 『それ』って何ですか。じゃあ、何を知っているんですか?
 見つめればカカシは笑っている。
「益々イルカ先生みたいです。料理が上手だったり面白かったり、才能も発見もありますねえ」

 誤魔化す事が今なら出来る。
 イルカは足の重心を入れ替えた。カカシは、自分からは去ろうとはしない。笑った目でイルカを見ている。

 不意に。

 じゃあ、もし、あなたなら。

 スズリの優しく寂しげな、低く澄んだ声。
 彼女は言い、自分の手の上にはあけび。
 高く厚い壁。

 カカシの手はまだ強く握られている。赤みが増した。

 あなたが、すきなの。

 蘇る声。 
 スズリは優しく寂しげに告げ、カカシは紫の木の実を。
 そうだろうか、そうなんだろうか。
 イルカの高く厚い壁、それは、カカシにとっても高く厚いだろうか。知られるとは限らない、花言葉などに託すほどに。

 本当にそうなんだろうか、本当にそうなんだろうか、本当にそうなんだろうか。

 イルカは思わず口を開き、声帯を震わせた息はカカシの肩をも揺らす。
「ワレモコウは感謝と変化です。あけびは、」
「『才能』と『発見』」
 続きを引き取ってカカシは柔らかく言った。それでいい、とでもいうように彼は手の平を開いた。が、
「三つ目は?」
とイルカが囁くと、抜けた気が再びカカシに灯った。それに照らされてイルカは汗をかき、沈黙が耳を焼いた。カカシは目を閉じ、決意したかのようにぱっと開けると、口元を覆う面布を引き降ろしてイルカに顔を曝した。
 ざわついていたはずなのに、今は、きいんと耳が痛くなるほどに静寂な廊下にイルカは立っていた。イルカだけに何も聞こえないのかもしれない。
 ゆっくりとカカシの乾いた唇が、離れ難いとでもいうように引き合いながら二つに分かれるのがイルカの目に映った。

「俺は、それが欲しいです」
 カカシより早くイルカが言った。言わせたくなかった。今度こそ間違ってはならない。

「いいんですか」
 カカシの掠れた声。
「欲しいです」
 イルカの消えそうな声。
 ほとんど息だけでイルカは告げた。
 『唯一の恋』、そして、あなたが、欲しい。

 カカシはイルカに三歩寄った。いつもより余計にふらふらしているようだった。
「ああ……」
 古木の下でも聞き、イルカが遮ったその音は。
「嬉しいです。とても……」

 カカシがイルカの指をそっと握った時、受付の机の上であけびが割れた。
 微かな甘い溜息のように、さくり、と小さく音がした。






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