したかったの俺は、と拗ねたカカシの顔を不意に思い出し、イルカは唇だけで笑った。
眠くなるような陽気に包まれている里を歩いていると、霜柱なんて夢だったんじゃないかと思わせられる。昇ったばかりだというのに元気良く輝いている太陽を仰ぎ、イルカは夏日だなあと呟いた。大門から続く大通りを逸れ、三本奥の小道から始まる細い林の中へと避難すると濃い植物の匂いがした。澄んだ空気をちらちらと割る影と光が並ぶ。
年を重ねても移りゆく季節の色合いは新鮮だ。乾いた土を踏みアカデミーへ向かいながら、イルカは胸一杯に清潔な空気を吸い込んだ。
「今日は逆ですね」
囁きに近い声に振り向くと、支給服を両腕ともまくりあげた男が立っていた。両手を胸の前まで上げて手先だけを垂らし、一瞬途方に暮れた様子に見えた。肘から下は乾いた泥がこびりつき、支給服もまだらになっている。
「どうしたんですか、泥だらけですよ」
「いやーそれがねえー」
にこにこと笑み崩れながら、カカシは体重を感じさせない軽い歩みで近寄ってきた。イルカは手を伸ばして指先でカカシの頬を触った。白く乾いた土が張り付いた右目の下の皮膚を撫でると、カカシはくすぐったそうに目を細める。
「もうねー大変なんです、朝から」
言葉とは反対に、カカシは嬉しそうな声を出した。
「七班の任務ですか?」
「いやいやーははははー」
「?」
首を傾げるイルカに、カカシはにゅっと顔を突き出した。素早く口布を下ろして頬の端に小さな音を立てて口付けをする。
「おかえり、イルカ先生」
「ええと、ただいまです」
いつもとは逆の台詞に照れながらイルカはキスをされた場所をこりこりと掻いた。
「今から報告ですよね」
「はい。一時間ほどで帰れると思います」
「ホントに? 職員室に戻ったらダメですよ?」
「う……分かりました」
待ってますから、とカカシは言った。嬉しそうにイルカを見つめ、あとでね、と呟くと走って行ってしまった。その背中を見送りながら少し寂しいと思い、思ったことにまた照れながら、イルカは受付所へ向かった。
任務報告を済ましたイルカは、密書の返事を直接手渡すために三代目の執務室に足を運んだ。
相変わらず紫煙をまとって書類に埋もれる火影は、職務的な色合いの声で労いの言葉を告げてから、ふいに気配を変えた。
「時にイルカよ」
里長は煙管を置き、組んだ両手の上に顎を置く。
「はい」
「いくつになった、おまえ」
「は?」
どうしてそんなことを、と思った途端、イルカは思い出してぽんと手を打った。
「ああ! 俺、誕生日ですね、今日!」
「なんだ、忘れておったのか。間に合うように急いで戻ってきたものかと思っとったわい」
「この年で誕生日がどうこうとは思いませんよ。予想していた邪魔が一切入らなかったおかげで順調に進んだだけですから」
「どうだかのう」
「三代目……。俺は子供じゃないですって」
「まあいいわい。おまえにはどうでも良くてもそうじゃない奴もおろう、と思っただけだ」
「……」
「で、いくつになった」
「はあ、二十六です」
「そうか」
呼吸に似た三代目の呟きは、優しくイルカの耳に届く。
「今日明日は休養せい」
「え、それは、」
「教師が足りておらん中、使いにやった埋め合わせと思え」
「……ありがとうございます」
「明後日からはこき使うということだからの」
「はは、分かりました」
ぺこりと頭を下げてイルカは部屋を後にした。誕生日など本当にすっかり忘れていたのだが、ああして気にされると急に嬉しさがこみ上げる。にやにやと口を緩ませながら、イルカは足早に家に向かった。
「ただいま戻りました」
大きな声を出しながら玄関の扉を開けると、おかえりーと緩い返事が返る。
「カカシさん、俺、今日、」
と言いながら居間に入るが、見慣れた姿が無い。
「カカシさん?」
「台所ー」
台所? と不思議に思いながら足を踏み入れると、カカシはなにやら鍋で煮込んでいる。
「何してるんですか、あれ?」
くるっと体を回されて、イルカは台所から押し出された。
「風呂に入ってきて下さい」
「は?」
「は、じゃなくて」
振り返れば、素顔を曝したカカシが笑いながら背中を押した。
「覗いちゃダメですよ?」
言いながらカカシは台所の引き戸を閉めてしまった。しばらくぼんやりと曇りガラスを眺めてから、イルカは仕方なく言われた通りに風呂に向かった。
「わー」
髪を拭きながら居間に戻ったイルカは、入り口で思わず足を止めた。
「危なかったです。間に合わないかと思った」
顔をしかめてわざと溜息を聞かせるカカシの顔をまじまじと見つめる。
「どうしたんですか、これ」
「たけのこ御前です」
たけのこ……。口の中で反芻し、イルカは首を傾げた。
「今頃たけのこなんて、珍しいですね」
中央には、小さめの桶に色とりどりの具を載せたちらし寿司が置かれ、その周りには吸い物、焼き物、煮物、それにカカシが苦手なはずのてんぷらが並ぶ。
「さっきの林、演習場に続いてるでしょ」
「え? はあそうですね」
「第八の奥に小さな洞窟があってね、そこにだけ生えるたけのこがあるんです。真っ白で柔らかくて美味しいって。普通のものより遅く生えるから今が丁度旬なんですよ」
「へえー知られざるなんとやら、ですね」
「そういうこと。ほら座って座って」
手を引かれて座布団に腰を下ろし、イルカは改めて驚いた声を上げた。
「あっさしみ!」
「そうそう、これ最初に食べてね」
さしみ醤油を小皿に注ぎながら、カカシは甲斐甲斐しく箸を渡す。受け取りながら、イルカはまた首を傾げた。
「カカシさんがこんなにたけのこ好きだったとは知りませんでした。春にも掘りにいけば良かったですねえ」
「……あの、イルカさん」
「はい?」
さしみを摘み上げ、醤油をつけながらイルカは瞬きした。
「あのですね、えーと」
「はあ」
「なんか間が悪いっぽいですが。誕生日おめでとうイルカ先生」
「……」
「あの?」
「ああ! また忘れてた! そうだったっけ!」
帰って来た時にはカカシに言いたくてたまらなかったのに、ぴちりと台所の扉を閉められたのがショックで忘れてしまったらしい。どうしようもないな俺は、と耳を熱くしながら、イルカは照れ隠しのように真っ白なたけのこのさしみを口に入れた。
「美味いですか?」
真剣な顔でカカシが覗き込む。
「すごく美味いです」
もぐもぐと咀嚼しながらカカシを上目で見ると、幼いと言いたくなるような笑顔が返ってきた。
「やった。何を贈ろうか結構悩んだんですよ」
「俺の誕生日、知っててくれたんですね」
「そりゃあね!」
どこか自慢げに胸を張る様子に笑い、イルカはカカシにも箸を持たせる。一枚摘んで口に運び、うん美味いと満足そうにカカシは頷いた。
「今日に間に合うように帰ってきてくれて嬉しいです」
「いや……忘れてたんですけどね俺は」
すっとちゃぶ台の上を白い手が滑る。小皿に添えられたイルカの手に長い指が絡み、みずかき辺りを何度も撫でた。
「俺が覚えているからいいんですよ」
きゅっと指先を握りこまれる。イルカが握り返そうとする前に、その手は焦らすようにするりと逃げた。視線だけで不満を告げるとカカシは目を細め、ちゃぶ台の端に置いてある封筒を取り上げた。
「読んで」
中には一枚の手紙が入っていた。ナルトの元気一杯な文字が躍っている。
おめでとうイルカ先生! 俺、がんばって掘ったってばよ! いっぱい食ってくれよな!
「ナルト……」
「サクラもサスケも手伝ってくれました。普通のたけのこと違ってすごく根が深くてね。さきっぽはさしみが美味いけど煮込むのは根に近いほどいいって聞いたもんで、二メートルくらいは掘りました」
「に、二メートル……」
驚きながらイルカは手紙とカカシの顔を見比べた。そしてじわじわとこみ上げる嬉しさに顔中で笑った。
「ありがとうございます」
どういたしまして、とカカシは箸を置いた。
「あいつらにも言ってやって下さい」
「ええもちろん。来ますかね、今日」
「十班の田植えがなかなか終わらないので貸し出しました」
言いながら腰を浮かし、イルカの隣に座る。ざりっと畳が鳴り、イルカの肩の上に銀色の髪が乗った。
「それが終わったら来るはずです」
意味ありげに声を潜め、耳元で囁く。
「それまで俺は暇なんです。明日も、休み」
ちら、と視線が絡む。
「俺もですよ」
少しの沈黙の間、とばりが降りたようにさっと日が翳った。息遣いが近くなり、薄い唇がイルカの頬から鼻先、そして少し開いた唇へと遊ぶように滑っていく。首筋を撫でる手が背中に回り、中指がするすると背骨を伝ってその終わりで止まった。
「でも、今は」
指先の骨をくすぐるように押してから、カカシはふふと笑って体を離した。
「こっちを食って下さい」
とん、と指先が食卓を叩く。そしてその手は何もなかったかのようにしゃもじを持った。
「……アレですね、カカシさん」
「なんですか?」
ちらし寿司を皿に盛り始めたカカシが視線をやると、イルカが俯きながら肩を震わせていた。
「一線、って言葉、あなたのためにあったんですね」
越えたらもうだだ崩れ、と噴出しそうになるのを堪えるイルカに、さあ食べて! と耳まで赤くなったカカシが皿を突き出した。
その夜、残った一メートル七十センチのたけのこ目当てに下忍達がどっとイルカの家に押し寄せ、ついでに酒をぶら下げたアスマとそれに引き寄せられた紅やガイまでが上がり込んで明け方まで飲み続け、翌日はただ二日酔いで倒れるだけになるとは、二人はまだ知らない。
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