「夜神くんはもう少し寛容になるべきです」
「僕が寛容じゃなければ誰が寛容だって言うんだ」
「夜神さんは寛容ですよ」
「じゃあ松田さんはどうなる」
「あれは問題外です」
「僕もそれでいいよ」
「キラと松田が同じカテゴリー内に入るはずがありません」
「……僕がキラなら寛容じゃなくても構わないと思わないか?」
「なるほど。これは自白とみなしてよろしいですか?」
「だから! 僕はキラじゃないって何度言ったら、」
「冗談ですよ」
「どこがだ」
「私が冗談すら言えないなどと思いますか? そんな人間に見えますか?」
「思う。見える」
「その通りです」
会話は尾ひれを生やしてどこへでも泳いでいく。偏頭痛が、と呟きながら月はモニターの前に戻った。きいっと椅子を回して座面の端に捕まった竜崎は月に向かって身を乗り出した。
「夜神くん」
癇症な音でキャスターが鳴る。
「なんだよ」
「わかりませんか」
「何」
「もう一度注意深く見て下さい」
「だから、何」
「私を、です」
言葉の粘度が高かった。悪い予感に椅子ごとずり下がろうとした月に、さらに傾いた竜崎が瞬きもせずに顔を寄せた。
「興奮しませんか?」
「なんだって?」
盛大に顔を顰める月に、竜崎の目が更に大きく開く。
「するでしょう」
「するわけないだろう!」
「そうですか?」
「馬鹿馬鹿しい。竜崎、そろそろあの資料をまともに、」
「私は今、勃起しているんですが」
がしゃんと椅子を騒がせて立ち上がった月を見上げ、竜崎はスローモーションのようにのろい動きで指を咥えた。ちゃらりと金属音が手首から立ち昇る。
「どっどうしてっ」
これまでの会話のどこに、そうなる要素があったのか。爪をしゃぶりながらの不明瞭な声が、記憶を捲る月の思考を噛み潰す。
「欲情したからです」
「ああそうだろうとも!」
竜崎はきろきろと椅子を動かして元の位置に戻って行く。手錠を引かれて月は斜めになった。
「夜神くん」
「やめてくれ」
「今朝のが」
「もういい」
「まだ」
たらりとキーボードの上に上半身を伏せた竜崎に、月の代わりにモニターがエラー音を出して抗議した。
「残っていて、こう、どろっと」
「わかったから!」
体をずらしてキーを押す軟体動物から顔を背け、離れられるだけ離れた場所で月は椅子の背を掴んだ。神経質な子供の泣き声に似た電子音が、金属だらけの部屋の中で反射を繰り返す。
「不快と快感の間にある段差について語りませんか、夜神くん」
「語らない……」
「残念です」
やっと止まったエラー音に視線だけを向けると、骨を失ったままの観察者の目とぶつかった。それを待っていたかのように、乾いた唇がのそりと開く。
「ああ」
さっきまでチョコレートのかかったクリームに塗れていた尖った舌が、皿を舐めきるように上唇を辿った。
「気持ちが悪い」
ぞわりと膝から腰へと上がっていくものの名を、月は知らないふりをする。
「夜神くん」
キーボードの並んだ鈍く光る平面にしなだれかかった血色の悪い肌が、突然浮き上がるように上気した。いや、そのように見えた。
「見て下さい」
ないはずなのに確かにそこに見える、ゆらめくものを凝視しながら足場を探す。
「注意深く」
最後の綱のように握り締めた椅子の背が、仰け反った喉から漏れた声と同じ音を出す。あれは、午前六時まであと数センチだった、白っぽい時間。
「私を」
真っ直ぐ射抜いてくる墨色の瞳孔に足を縺れさせた瞬間、爪先から地面が消えた。
「美味かったですね、ラーメン」
「面倒だが外に出て良かったな」
空気が抜けるような音と共に開いた扉から、どやどやと刑事達が戻ってくる。
「今日はひときわダラけてますねえ、竜崎は」
椅子の背に掴まっていたはずの手は宙に浮いていた。松田の声に被って確かに舌打ちを発した男までの距離は数歩も無い。
「交代だ。食事に行ってくれ」
父の声に頷き振り返った鼻先、濃厚な気配に息を詰まらせる。だがそれは一瞬で霧散し、背を丸めた痩せた男がわざとらしく肩同士を触れさせながら隣を通過して行った。
「行きましょう、夜神くん」
「……ああ」
それは、二人だけの空間にのみ漂うもの。
「夜神くん?」
思考も矜持も奪い去り、本能だけを炙り焦がす濃厚な。
「なんでも、ない」
雑な動きで鎖を引く男から目を逸らし、月は強く頭を振った。
繋がれている。
幾重にも。
手錠などなにほどの意味も無い、あるはずで見えない、もの。
「行こう」
ぎらぎらと滲む視界の中、尖った舌で親指を舐めている竜崎が息だけで、笑った。