「シェルシェ、か」
「セッティエムソンの効果の方があんた好みじゃない?」
「なあにこれ。ソルティ……レージュ? 初めて見るわ」
女達が集まり、色硝子でできた小瓶を持ち上げては陽に透かすようにして眺めている。
「何それ?」
ラムザの隣をすり抜け、ムスタディオが机に寄って行く。
「香水」
ラファが淡い緑色の瓶を軽く振ってみせると、涙型の容器の中に半分ほど入った液体がしゃらんと音を立てた。アグリアスが透明の硝子を難しい顔で見つめてからムスタディオの手のひらに乗せる。ほんのわずか、指先に緊張を走らせて受け取った手が、それを紺色の目の前に持って行く。
「こういうの好きだよな、女は」
「違うよ、守ってくれるの。指輪やバレッタと同じ」
「へえ」
珍しそうに小瓶を見つめ、でも見てもわかんないな、とムスタディオはラファに顔を向けた。
「重さが無いし邪魔にならないから、武具を使う人に向いてる。でも選んでくれない」
「誰が?」
「アグリアス」
くりっと瞳だけを動かして背の高い女を見上げるラファの言葉にジャッキーが頷く。
「匂いがするってことそのものがお気に召さないみたい。普通の香水よりもずっと薄い香り方なんだけど」
「敵に発見されやすくなるだろう」
真面目な顔で水色の丸い容器を見つめながら、アグリアスは呟く。
「汗臭い男より、マシ」
瞬きを繰り返すラファが唇の先で笑った。
「そうは言っても……。やはり躊躇してしまうな」
「つけてみて様子をみるってのは? 匂いを気に入るかもしんないだろ」
かちりと留め金を外して蓋に掛かったムスタディオの指を、アグネスがむんずと上から押さえた。
「待ちな。ちょっとでもついたら効果がでるよ」
「これ、どうなるんだ?」
「レビテトとリフレク」
「おっと……」
彼は昨日の戦闘で左足を捻っている。ケアルが効かないと困っちまう、と笑って元通りに留め直した瓶を奪われるまま手放すムスタディオの顔をアグネスの視線が滑り、背後のラムザにちらりと向かう。まぶたを半分下ろして見下ろしてくる水色の目にかすかに溜息を吐き、アグネスは透明な瓶を机に置いた。
「アグネスは今、少し、」
大きな目に彼らを映していたラファが、独特の歌うような調子で言いかけた。
「なに?」
赤毛の女をもう一度見つめてから、ラファは頭を左右に振った。
「なんでもないの」
「言えば」
促したのはラムザだった。しかしラファは跳ねるように歩いてジャッキーの後ろに隠れた。
「どうしたの、ラファ?」
ジャッキーの腕に掴まり、ラファは頑なな仕草でぶるぶると頭を振った。
「なんでもないよ」
「いじめるな、ラムザ」
アグリアスの苦笑に、あら、いじめられたの、とジャッキーがラファの黒髪を撫でてやる。違うよ、とくっきりと濃いまつけに縁取られた目がラムザを見上げた。
「ラムザは今、傷ついてるの」
「当たり。みんなが僕を悪者にするからね」
ムスタディオの腕を掴んで引きながら笑うと、ラムザは宿の二階へと上がって行った。視線を空回りさせるように階段と机の間を往復させてから、アグリアスは緑色の小瓶に同じ色の瞳を向け、一通り試してみることにする、と呟いた。
「もういいよ、こういうのは……」
しかしベッドを降りた途端、ムスタディオは荒い木の床に膝を突いた。
「諦めたら」
「嫌だ、もう」
「無理だって」
するりと隣に立ったラムザは身を屈め、力の抜けた体を引き起こしてベッドに戻した。
「随分痩せたね」
「ラムザ……」
伏せたムスタディオの背中を撫で下ろす。
「残念だけど相手が悪いよ。僕は見なかったふりなんてしてあげない」
そのまま腰まで手のひらを滑らすと、ムスタディオは体を折り曲げながら壁際まで逃げた。かわいそうにね、と囁いて背後から抱きしめると彼らしくない捨てるような溜息が聞こえた。
「嫌だ」
「嫌でいい」
薄いシャツのボタンを外しながらラムザは言った。
「嫌で、いいんだ」
歯を食い縛り引き攣れた嗚咽を呑み込みながら、ムスタディオの体を止めようの無い震えが覆っていく。内臓に染み渡った薬が無慈悲に暴れる様を見つめながら、ラムザは冷たい汗を浮かべた額を何度も撫でた。
「どうしてこんなことになったんだろうね」
光の似合う彼が、なぜ。
「どうしてだろうね……」
黒い筋のある瓶に入った黄色い薬。床から突き出した丸い金属の輪から伸びる鎖、そこに繋がれた金髪の青年。
忘れることのできない、しかし思い出すこともまた難しいあの二週間が、ラムザの胸から引きずり出されて目の前に再現されたようだった。自分に与えられたはずの役を演じさせられた青年を、ついでに殺してやりたいと思いながら男達をずたずたに斬り刻んでから一月も経っていない。しかし、ムスタディオにとってその日々はどれほど長かっただろうか。
「かわいそうに」
わかっている。何もかも、自分のせいなのだ。この純朴な青年を暖かい土地から引き離して戦いに巻き込んだ、自分のせいだ。
唇を噛み続けるムスタディオを静かに犯しながらラムザは緩く笑う。
薬は、生涯抜けないかもしれない。だから、失おうと思う。二度と得ることのできない、大切なものを。
次第に震えが収まっていく体をきつく抱き、ラムザは目を閉じた。
「良い天気ねえ」
「午後は雨だが」
あらそう、とジャッキーが振り返る。眉間に皺を作るマラークは、ぬっと戸口に立ったまま妹を見つめている。彼と同じ黒い目を素早く瞬きさせるラファは、苦笑するアグリアスの腕を引いていた。
「アグリアスはどうして、」
「なんだ?」
しかしラファはそこで言葉を止め、首を傾げる茶色いローブを纏ったアグリアスを引っ張りながら、兄の肩の下を通って表に出る。彼らを追うように、残りの者も宿を出た。
「隊長、予定通りでよろしいんでしょーかあ」
伸びをしながらラッドがあくびをし、いいよと答えるラムザは照りつける真夏の太陽をうんざりと見上げ、目を細めた。
「寝足りてねえのか? おまえ、そういう時って光に弱いよな」
「ほっといて」
「ラッド」
にこりと笑うアグネスに指先で呼ばれ、隊一番の胡乱ないでたちの男はひょいと一歩下がった。何かを耳元で囁かれ、びくりと肩を揺らしたラッドはそのまま下がり、俯きながら最後尾についた。
「何て言ったの?」
「うふん、内緒」
うわ怖い、と呟いてジャッキーも下がって行く。残ったマラークはアグネスの目をまじまじと覗き込み、ウワコワイ、とジャッキーの口真似をしながら無表情に前を向いた。
「マラーク……」
「あんた、損な性分だ」
「それがどうしたっての」
「いや。好きにしろ」
するよ、と鼻の頭に皺を寄せるアグネスを、アグリアスが大きな歩幅で追い抜いた。
「ラムザ」
うん、と振り返った細い目が、わずかにまぶたを震わせた。
「重装備用のギルが足りないんだったな。この先の湿原で少し狩りをしないか」
皆調子も良いようだから、と穏やかに瞳を向けるアグリアスに頷きかけて、ラムザは眉を潜めた。
「何、それ」
なんだ、と問い返す視線を断ち切り、首筋近くに鼻を寄せる。暗がりを好んで咲く花のような、囁きかける甘い香りがわずかに漂っていた。ラムザの仕草に、ああ、と呟きアグリアスはそっけない発音で言った。
「ソルティレージュ」
「ああ、昨日の香水、ね」
「少しつけてみた。効果が出ても差し支えないから」
「ふうん。あなたの匂いが消えたね」
ラムザは思いついたままに感想を述べ、その言葉にアグリアスはぴたりと足を止めた。数歩気付かずに歩き過ぎてから振り返り、ラムザも止まる。何事かと顔を向けながら仲間達が彼らを追い抜き、やはりわずか先で立ち止まった。
「アグリアスさん?」
彼女は仮面をつけるように、その顔に無表情を貼り付けた。
「責めているのか?」
え、と唇を開いたラムザを置いて、アグリアスは集団に紛れた。不満そうに口元を強く引いたラムザが先頭に戻り、隊は静かに道を辿って行く。
「出来の悪いイヤミだね」
「彼女には精一杯だろう」
だろうね、とマラークを見上げてアグネスは肩を竦めた。
「火薬や機械油の臭いは移りやすくて取れにくいって、誰かラムザに教えてやればいいのに」
「あんたが教えてやったらどうだ」
「冗談じゃない。同じ言葉をお返しするよ」
「ジョウダンジャナイ」
異国の眼差しは地平に沸く雲を眺め、雨が来る、と呟いた。