ただ想いだけが残るとしても

「あ」

 二人は同時に言った。
 イルカが止まり、カカシは枝伝いに身を返した。戻ってくるとは思っていなかったイルカは口を開いたまま、目の前に飛び降りる男を見つめた。
「お久しぶりです」
 行儀良くカカシは言い、しかし遠慮なく手を伸ばしてイルカの腰を抱いた。カカシの体表にはぴりぴりとチャクラが瞬き、抱き寄せられた瞬間にイルカは背筋を粟立てた。至近距離で曝された左目が、イルカを凝視しながら心持ち殺気を緩ませる。
「カ、カカシ、さん」
 アカデミーの中庭だった。生徒達を最も堅牢な建て屋に移動させ、それを中心に中忍教師が配置し守っている、そんな緊急配備の状況下の中庭だ。
「誰かが、」
 見ています、と囁いて、イルカはカカシの胸を押した。カカシは抵抗も無くすんなりイルカを開放する。
「生徒達は無事ですか」
 とても穏やかに言う彼を良く見れば、点描のように全身に赤い模様を貼り付けている。ほとんどは返り血のようだが、幾つかは自前の傷からのものだろう。その姿はイルカに激しい苛立ちを沸かせた。
 ――こんな時に。
 上忍が傷を負うような時に、足を止めるばかりか触れようとするなど一体何を考えているのか。しかし、イルカを最も怒らせているのは、危機の中で縋るように求められて喜んでしまった自分の気持ちだった。冷静という言葉を何度も思い浮かべながらイルカは目線を外して低い声を漏らした。
「……緊急配備済みです」
「出来るだけこちらには寄せないように暗部を配置していますけど、がんばって下さーいね」
 何が、寄って来るのだろうか。イルカはまだ詳しい情報を知らない。大蛇丸が戻った、ということは伝え聞いた。火影が死闘を続けているということも。そして、敵はかなりの数だとも聞いた。自分は子供達を守る、それだけがイルカが今確信している物事だった。
「あいつらは、」
 気持ちを逸らすために言葉を継ぎかけ、イルカははっと顔を上げた。自分の手も頭も、やっと印を正しく結べるようになったばかりの幼い子らのためにある。いつまでもナルトを思うあまりに忍としての本分からズレがちな自分の甘さを、目の前の人に叱責された記憶も新しいというのに。
「サスケが砂隠れのバケモノを追跡しています。ナルトとサクラとシカマルにその後を追わせました」
 イルカの自己嫌悪に気付かぬふりをしながらあっさりとカカシは言った。眩暈を感じ、イルカは片手を額に当てる。
「大丈夫、全員とても強くなったよ」
 俺の犬もいるしね、と笑ってカカシはイルカに寄り添った。寄り添う、という以外に表現出来ないほど、繊細に片方の爪先をイルカの爪先に当てた。
「大丈夫でーすよ」
 優しい声だった。こんな時にこんな音を聞かせるなど反則だ。イルカは熱を持つ目を何度も瞬いて涙を引っ込めた。
「……もう行って下さい、時間の無駄です」
 はい、と素直にカカシは頷いた。
「これが終わったら、ちゃんと仲直りしましょう、ね?」
「あっ、はい……」
 もう一月以上もまともに話していないことを思い出し、突然緊張してイルカは言葉を途切らせた。気持ちを伝え合ってすぐの中忍試験の騒動で、固まってもいない二人の関係は駄目になったかもしれないとイルカは思っていた。それも仕方が無いことだと、確かに甘くはある、甘くはあっても、ナルトにはそう思ってやる人間の一人くらいはいなければと、意固地になってカカシの行方を誰にも聞くことをしなかった。受付で、アカデミーからの帰り道で、姿を見せない男を目で探して唇を噛みながら。
「俺も、ちゃんと話をしたかった、です……」
「後で、ゆっくり」
 微笑みを崩さずカカシは顔を近寄せる。鼻が触れる距離、赤い写輪眼がどこか滑稽な動きで半回転するのをイルカは黙って見つめた。
「じゃあね、イルカ先生」
 カカシは別れの言葉を言っておいてから、騙まし討ちのようにイルカを掻き抱いた。耳と耳とをくっ付けて、何か大事なことを聞こうとしているように首を傾けた姿勢で、ふう、と息を吐く音が聞こえる。
「カカシさん」
 この人は限界に近いのではないか、そう思った瞬間体の中から温度が下がっていくように感じ、イルカは衆目を忘れてカカシを抱き返した。探れば探るほど、彼のチャクラが小さく思える。ぞっとする程に。
「必ず、話をしましょうカカシさん。後で、きっと」
 カカシの体重が少しだけ掛かった。
「うん、待ってて」
 一度視線を交わし、合わさった胸が離れる。熱を失ったイルカは身震いした。しかしこれが自分達の生きていく道筋なのだ。忍という、何も残らない生き方を選択した自分達の。
「ご武運を」
「はい、あなたも」
 それに続いて低く響く声が聞こえた。返事もできずに立ち尽くすイルカに、カカシは目を細めてみせた。
「じゃ」
 短く言った男の姿は、一巻きの風を残して消えた。

 ――あなたを胸いっぱい補給できたので、俺は今朝よりも強くなりました。

「俺も、です」
 呟き、何度も瞬きを繰り返してイルカはきつく唇を引き締めた。そして幼い命を守る結界を張り詰めている仲間を目指し、大きく跳躍した。