カブトムシ

『レポートが終わった』

 件名だけのメールが届いたのはサンマ定食を食べ終わったのとほとんど同時だった。即座に終業予定時間を送って拓海は携帯を目の前に置き、茶柱がゆっくりと沈んでいく緑灰色のプラスチックの湯のみを両手で握った。
 メールの送り主と最後に会ってから二週間が経っていた。遠征のミーティングにも出て来られないほど予定が詰まっている彼に、拓海から連絡を取ることはない。それをすると壊してしまいそうに思えるからだ。自分達のもろい関係を含んだ、全てを。
『二十一時、駐車場』
 まだ何かが忙しいのだろう、やはり件名だけのメールが青い光を灯した。了解、とだけ返して胸ポケットに仕舞って立ち上がり、汗をかきながら両手に盆を持ったおかみさんにごちそうさまと手を上げた。
 古びた定食屋からぶらぶらと表に出て駐車場に足を向け、拓海は空を見上げた。小さな鳥を浮かべたそれはやたら高くて、太陽が沈む時間はまだ遠いよと言われたような気がした。


 大学の通用門をちらりと窺ってから拓海は駐車場へと入って行った。これは何度やってもほんの少しだけ胸がどきどきする。拓海は群大生でも学校関係者でもないからだ。
 ――カンケーはあるけどなー。
 つまんねえよ俺、と口元をむずむずさせながら暗い駐車場を横切って行く。何台も並んだ白い車の前を通り過ぎて見つけたFCはひっそりと主を待っている。その横で同じく大人しくしていると、五分もしない内に人の気配がした。
「待ったか」
 目の前に立った人は息を弾ませている。走って来てくれたことが嬉しい。いいえ、と口にした途端に頬が熱くなるのがわかった。それも予定の内とばかりに上がった指先にするりと頬骨の上辺りを撫でられ、拓海はほとんど自動的にその手を掴んだ。
「なんだ?」
 握ったものの、どうするつもりもなかった。意味も無く何度か握り直して指を組み合わせると、きつく力が返ってきた。
「歩いて帰ろうか」
「え?」
「このまま、手を繋いで」
 見下ろしてくる視線は笑っている。慌てて指を解こうとしてもまだ強く握られたまま、軽く引っ張られてふらりと揺れた頬に唇が触れた。
「あっ」
 息だけで笑った人の指が離れていく。
「乗れよ」
 シートに滑り込みながら言われ、拓海は頬を触りながら助手席のドアを開けた。


 この家にはいつ明かりが点いているんだろう。
 来る度に同じ感想を持つ暗い玄関に、ぱっと白い蛍光灯の光が落ちる。
「お邪魔します」
「律儀だな」
 靴を揃える拓海にそう言い残し、道すがらにぱちりぱちりとスイッチの音を鳴らしながらグレーのシャツは廊下を進んで行く。良く磨かれた深い色のフローリングは豆腐屋の床とは違って静かに拓海の重さを受け止め、センターラインのように天井の明かりを映していた。
「藤原、コーヒー、」
 耳の横で言葉が途切れる。広いリビングの入り口で捕まえた体を思い切り抱きしめ、拓海はほうっと息を吐いた。躊躇無く抱き返してくれる腕を背中に感じながら目を閉じる。
「……悪かったな、随分と間が空いた」
「も、いいです」
 実験室の薬品と混じると悪臭になることもあるんだと、香料を避けている人から今日も得体の知れない人工的な臭いがする。それでも拓海はかすかに汗ばんだ首筋に鼻を摺り寄せ、目を瞑って彼の体臭を探す。
「藤原」
 こめかみに口付けをされ、顔を上げるとすいっと腕を引かれた。そのまま引き寄せられて目線が下がり、ぼすっとソファに沈む。
「……えっと」
「二週間ぶり、か」
 背後から抱きかかえられ、拓海は首を捻って顔を見上げた。彼が好む、闇よりも黒いと喩えられる飲み物と同じ色の髪がさらりと頬を撫で、伏せかかったまつげの間から別の黒が、拓海を捕らえようと濡れ始めた色が、ちらちらと光を反射しながらこれ以上近寄れないところまで迫った。
 綺麗に磨き上げたような清潔な外観をきっぱりと裏切る、欲を熱として伝える唇が拓海の同じ場所に重なる。しっとりと触れてから頬へと滑り、目元、まぶた、額と、逃げていく熱を追って拓海はもがいたが、胸に巻きついた腕は緩んでくれない。反対側の耳、頬、顎、首、肌から離れるごとにかすかに聞こえる音はシャボン玉の音だ。少し目にしみる飛沫をきらめかして弾ける虹色の囁きを聞きながら、ゆるゆると胸を這う指に指を絡めて拓海はぐったりと体重を預けた。
「なんか……」
「うん?」
「俺が、抱かれるみたい、です」
 水かきをくすぐられて目を開けると、とろりとした視線に捕まった。
「俺は男だからな」
 小さなキスを浴びながら拓海はかすかに笑った。
「知ってます」
「こういうやり方になる」
 一番馴染む場所を探して指が絡み合う。
「可愛がる方法を他に知らない」
 ふじわら、と甘く発音する唇が耳を噛んだ。
「おまえを可愛がりたいんだ」
 滅茶苦茶に甘やかして駄目にしてやりたい、そう囁く赤い粘膜を見つめながら拓海も同じことを考えた。滅茶苦茶に甘やかして、甘やかして、甘やかして……何も出来なくなるまで。
「もう俺、ふらふら」
「あと少しだけ」
 髪に鼻先を埋めて声がくぐもる。
「ああ……おまえの匂いだ……」
 ふうっと胸に刺さるような呼吸を聞かせて腕に力がこもる。
「とーふのにおい?」
 拓海の声には笑みと欲情が滲む。
「そうかもな……。でも、おまえ、の……」
「うん」
 いつの間にか、背後から重みが掛かっていた。
「ふ、」
「うん」
 一息で飛び散る綿毛のように、ばらばらに零れた人が拓海の腕の中に落ちてくる。
「俺」
 足元から駆け上がってくるものになすがまま焦がされ、もう何も見えない、もう何も聞こえない。

「すげえ、好き」
「おまえを……」
「ああ、どうしよう、ねえ俺、すげえ好きで」

 掻き集めるように抱き篭めて頼りはただ。

「おかしく、」
「駄目、に……」

 ただ、恋の匂い。