その日予備校を終えて自宅に帰った月は、大量の革靴に迎えられた。玄関口に脱がれたそれらを見下ろしながら自分の靴を脱ぎ、月は一瞬このまま二階の自室に向かおうかと思い、やめた。
廊下を歩いて居間に向かうと、母の幸子が大きなスイカを抱えて風呂場から出てくるところだった。
「あら、おかえり」
「ただいま。何それ」
「いただいたのよ。冷蔵庫に入らないからお風呂で冷やしてたの」
受け取ってやると幸子は嬉しそうに微笑み、ああ重かったと腰を伸ばす。
「父さんの部下の人達?」
「ええ。よくは聞いていないけど、事件が行き詰っているらしいのよ。気分転換にっていらしたの。さっき食事をお出ししたところ」
スイカを抱え居間に入ると、人数のわりには静かに会話する男達の姿が見えた。
「お、月くん。お久しぶり」
すぐに声をかけてきたのは一番古い顔だ。これまでにも何度か家に来たことのある相沢だった。父総一郎の姿は無く、こんばんは、と彼らに会釈してキッチンに入る。幸子に半分に切ってよ、と言われて包丁を取り上げたところで、上背のある男が積み上げた皿を持って来た。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさま。あ、模木さんは月とは初めてかしら」
母の言葉に顔を上げると、男はややぎこちなく微笑んだ。
「始めまして」
「始めまして、長男の月です」
模木は会釈すると高い位置からスイカを見下ろし、
「自分がしましょう」
と手を出した。月から包丁を受け取ると、軽く振るって半分に割り手早く切り分けていく。その手馴れた様子にお料理されるの、と幸子が驚いたように言う。ええまあ趣味で、と無表情で照れている模木に付いて、スイカを持って居間に戻った。
「月」
「お帰り、父さん」
うむ、と疲れた顔の総一郎は携帯電話を閉じている。ベランダででも話していたのだろう。
「仕事、きつい? 痩せたみたいだ」
「いや。もう少しだ」
宇生田がソファの空いた席に月を促す。相沢と同じく、何度か総一郎に連れられて自宅を訪れている知った顔だ。
「ああ、模木とは初めてだったか。松田は……二回目だな」
「模木さんには挨拶したよ。スイカ切ってもらった」
そうか、と総一郎は何度か頷き深く息を吐いた。斜め向かいで若い男がもぞりと立ち上がる。
「ああ、手洗いは、」
と言いかける総一郎を制して、月が立ち上がった。
「去年改装したので以前の場所とは違うんです」
こちらへ、と手招きして月はリビングを出た。
「……月くん」
「こんばんは」
振り返り、じっと目を見上げてやると、松田は僅かに視線を外した。
「まだ開き直ってないんだ?」
可笑しくなって苦笑混じりに言えば、できるはずないよと松田は言葉を途切れさせた。ホテルでは強引なのに、と胸の中で呟き洗面所とトイレの場所を教えて背を向けた。
「月くん」
振り返ると、松田は下げた両手を握って真剣な顔をしていた。
「次は、あるよね?」
あるよ、と反射的に答えようとして思いとどまった。今なら言いやすい。
「……考え中。受験も近いし」
俯きながらそう言ってやると、そうか、そうだねと松田は答えた。僅かに語尾が震えたのには気が付かない振りをして、月は言いよどむような口調を作った。
「父さんも大変そうだから……。万が一にもバレたくない」
「……うん」
顔を背ける松田は唇を噛んでいる。やれやれと思いながら慎重に声音を選んで言った。
「次で最後にしたいんだ。ダメかな」
「そう、だね。分かったよ」
寂しそうに微笑んでから松田は手洗いに向かった。リビングに取って返しながら大きく息を吐く。助かった。想像していた中でも、最も穏便な形で清算出来そうだ。
親不孝だと思いながらも父と父を取り巻く状況に感謝し、月は笑顔を作ってリビングに足を踏み入れた。
松田と最初に会ったのはやはりあのゲームセンターだ。名前は山田と名乗り、商社勤めだと言っていた。当然そんなものは信じていない月は、二度会った後に向かったホテルでいつものように名刺を抜こうとした。しかし、鞄の中には傘とタオル、そしてテレコと替えのテープだけしか入っていなかった。
今までカメラを持ち出したり携帯で録音しようとした者はいたが、テレコを持ち込むのは異様だ。警戒を強めながら電池を抜いた。やがてバスルームから出てくる姿を見て、更に月の中で警報が鳴った。男は狭く湿気る脱衣所に、いつの間にかスーツの上着を持ち込んでいたのだ。そのホテルはラブホテルにありがちな構造をしており、風呂場の一部がガラス貼りで脱衣所に忍び込めばすぐに発見される。月もそこまではしようとは思っていなかったが、その必要を感じる程度には警戒を強めた。
結局その夜は男に怪しい動きもなく、月は次の約束をして別れた。会わずに一夜限りの相手として切ろうかと散々に迷ったが、結局月の性分がそれを許さなかった。そして二週間後に再び会い、上着の中を見るチャンスを窺った。
それは思ったよりも困難な作業となった。調子に乗りやすくどこかとぼけた印象とは裏腹に、男はカードすら使わずポケットから直接札を出し、手洗いに行くのにも必ず上着を持って行った。ホテルに入っても同じで、おとりのように残された鞄には前回と同様の持ち物の他に、ピンセットが一つと白い手袋が一組入っていた。
持ち物の異様さもさることながら、二度寝ても相手の素性を知ることができなかったのは月にとっては初めてのことだった。次は必ず上着を探ってやると計画を練っていた時、来客に遭遇した。
半年前に部下になった者だと父に紹介されて顔を合わした時、月は全てに納得した。男の肩には、何かに締め付けられたような跡が薄っすらとあった。あれはホルスターの跡だったのかと、あの慎重さも当然のことだったのだと、狼狽する松田を前にしながら月は満足した。最適な挨拶を選び、強い視線で黙らせてから隣に座り、口実を作って二人きりでベランダに出た時には、月明かりに目が光るほど松田は混乱を極めていた。倒れそうな体を支えている手はざらつく手摺をきつく掴み、月はその上に自分の手を重ねて囁いた。
こういうの、面白いと思いませんか?
指の間をするりと撫で、手首を掴んで一歩寄り、耳元でもう一度囁いた。
すごく、興奮する。
それは嘘ではなかった。この状況は面白い。もう何人とも遊んで同性とのセックスにも飽き初めていた月だったが、この男は残してもいいと思った。
松田はおろおろと背後を窺い、聞こえるか聞こえないかの小声を出した。
酷いよ、月くん。
なにが、と聞いたが松田はぶるぶると頭を左右に振り、逃げるようにリビングに戻って行った。そして三日後に月の携帯が鳴り、その夜松田は財布を取り出した。
だらしない男だ。
月は戻ってきた松田を見ながら目を細めた。月の視線から逃げるように隣の相沢に体を向けている松田は、妙に饒舌にスイカを褒めている。
そもそも男をナンパして未成年と知っても手を出すような人間で、更には上司の息子だと分かった後も関係を絶たなかった大胆さがありながら、こんな軽薄な関係に恋愛感情を混ぜ込み本気で傷ついている。よくもこれで、警察庁にキャリア採用されたものだと感心すらしながら月はスイカを齧った。総一郎のような気骨や頑固さが無い限りは、こずるさと手回しを要求される人生が続く出世組とはとても思えない。
下唇に垂れた果汁を指先で拭い、始末に困って舌先で舐めた。ふっと顔を上げれば松田が目を逸らすところだった。その喉がひくりと動いて唾液を飲んだのに、月は口の中だけで笑った。
わずかに発散された不機嫌を塗りつぶすように、鬱積はその部屋で製造され続けている。
こんなに上手くいかないのは初めてだ。馬鹿にされている? 甘く見られている?
きつい刺激にうつ伏せた竜崎の背がぶるぶると震えている。その真ん中をばちりと平手で打った。瞬間的に頭を上げた竜崎が再び両腕に顔を埋める。
「データは」
次第にその言葉の意味を見失いつつある自覚。しかし、意地のように止めることができない。
「ありません」
吐く息と一緒に呂律の怪しい発音が聞こえる。ソファの上に上半身を乗せ、生地を掴み締めている竜崎の肩が忙しなく動いている。蹴飛ばしたローテーブルから転がり落ちたカップが、疲れたような音を立ててひび割れを深くする。
「いい加減、抜きたい」
両手で左右に開いた肉の間、濡れた音を立てている結合部を見下ろしながら月は呟いた。
「抜けば、いい、じゃないです、か」
月の言葉に必ず返答をする声はむせるように切れ切れになって随分経つ。
「データが出てきたら抜く」
無機質に腰を動かし、月は壁にかかった時計を見上げた。始めてから一時間。一度射精した。そろそろ勝手に出てしまいそうだと思った途端、揺さぶっている体ががくりと左に崩れ、捻られた刺激で月は達した。肩で息を吐きながらソファに両手を乗り上げ覗き込むと、汗に塗れた竜崎は目も口も大きく開けている。
「いった?」
「抜いて、下さ、あ、いやでっううああ!」
大きな声に少し驚いたが手は止めない。繋がったまま中腰に立たせ、ソファの背を握らせる。
「ふうん、まだいけそう」
「やめてくださ」
あああと喉を反らせ、崩れて座部に膝を突く。達した後に更に擦られるのを辛がるのは変わっていない。月は冷めた頭で抜けかけている性器を乱暴に押し込んだ。ソファの背を抱き込むようにしてぎりぎりと掻き毟る爪が白い。
「もういやだ」
妙にくっきりと言ってから竜崎は腕の間に顔を落とした。全身で息をしているかのような荒い呼吸音が続く。
「うううう」
泣くのかと観察していると、痙攣するように連続で大きく震えて更に息の音が激しくなる。肩が動く度にはあっはあっと搾り出すように息を吐き、次第に速度が上がる。
「竜崎? おい、」
病的な速さで継がれる呼吸に月は動きを止めた。手のひらで口を押さえてがくがくと揺れる竜崎から離れるとソファにきつく食い込んでいる片手を毟り取って仰向けに寝かせる。
「竜崎!」
目を見開いて胸を押さえる姿に見覚えがあった。これをやったクラスメートがいた。
「……面倒だな」
周りを探すと書類の入った封筒が目に入った。ばさばさと雑多な物を振り落とし、茶封筒を袋状に握って口を細くし竜崎の口に当てようとした。
「いやです!」
それしか言えないらしい竜崎は両手を振り回して威嚇した。
「こうしないと収まらない」
「い、No!」
なんだ、と緩んだ手から封筒を奪われた。物狂いのようにそれを破って放り、竜崎は身を縮める。骨ばった両手で顔を覆ってその中の空気を吸おうとしているように見え、対処法は自分でも分かっているらしいのに、と月は自分の額に手を当てた。
「やってみるか……」
滅茶苦茶に抵抗する手首を強引に引き上げた。抵抗の激しさと反比例して竜崎の力は弱い。がくがくと震える顎を睨んで月は眉を寄せた。想像通りにいくのかなど分からない。が、これを放置して部屋を出るのはさすがに寝覚めが悪そうだ。数秒躊躇したが過剰な呼吸を続ける唇にぶつけるように口を寄せた。
ふーっと自分の息を吹き入れ、唇を離すと空気を吸い、一拍胸に溜めてから再び竜崎の口に吹き込む。
数分をかけて手首から少しずつ力が抜けていく。やがてぐったりとした腕を離して月は立ち上がった。見下ろしている月などは見えていないのだろう、焦点の合わない目がゆるゆると瞬きを繰り返している。
それをぼんやりと見ながら月は考えていた。
Please, Dad.
そう竜崎は言った。言葉は理解できたが意味はさっぱり分からない。しかし月はその声に怯んで封筒を手放したのだ。
胸と口元を掻き毟るように押さえ、竜崎はゆっくりと体を回してソファの背に縋るように横倒しになった。
ひどく胸が悪い。
思いながらも月は眼下の痩せた体から目を離せなかった。
DEATH NOTE TOP